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電子書籍作家の幾谷正が個人出版の最前線で戦う話

元ラノベ作家だけどシナリオライターの学校に通うことにした#3 『企画書講座②』

前回:元ラノベ作家だけどシナリオライターの学校に通うことにした#2 『企画書講座①』 - Funny-Creative BLOG

まとめ:scenario カテゴリーの記事一覧 - Funny-Creative BLOG

企画講座の第2回に出席してきました、幾谷正です。
8時間フルタイム仕事して定時で仕事片付けて即会社出て30分で2キロぐらい走ってシナリオの勉強する生活は無駄に充実してますけど、そのうち心が折れないか既に不安ですが、まあ頑張っていきます。

今日受けてきたのは企画書講座の2回目で、先週出された「企画意図を書いてくる」という課題をそれぞれ行ってきた状態での授業です。

今回はグループワークが中心で、6人一組のグループを作ってそれぞれお互いの企画をはっぴょうして感想を言い合うというものでした。
また、6人の中から1人、出来が良かったものを代表として選んで最後に発表し、講師にコメントをもらえるというものです。
だいたい40人ぐらい出席してて、6人グループが6個あって6作が発表された形になります。

僕的には「せっかくプロの講師にフィードバックもらえる機会なんだからもらわないと損だな」と思ってたので、「発表したいです!」ってアピりまくって代表に選出してもらえました(おとなげない)

6人グループの中で発表し合って「ドラマとしてちゃんと体裁が整ってるなー」とか「このタイトルは結構上手いなー」とか驚かされることが多々ありました。
僕自身あまりドラマを見ないタイプですし、企画書も体裁としては少し不完全な部分は多かったので、ちゃんとしてる人の物を見ると自分のちゃんとしてなさを痛感させられます・・・。
このあたりはやはり、ちゃんとコンクールに出したり脚本家としてデビューすることを目指して、勉強してる人たちの集まりだなと思いました。

次に、それぞれの代表者の発表に移るのですが、そこでちょっと「おや?」と思う部分がありました。
例えば「そのテーマが書きたいならキャラの設定こうした方がよくない?」とか「応募規定の枚数に対して設定が過剰すぎないか?」とか、厳しい言い方をすると「書いてみたら上手くいかなそうだなー」という印象を持つものがやや見受けられました。
企画意図の時点で、「自分が何を書こうとしていて、テーマに対してどう切り込んで、客観的に何が面白く見えるか」をちゃんと判断出来てる必要があるので、実は結構難しい課題をやってるんですよね。
僕自身、企画意図を書くために冒頭のシナリオをあるていど書いてみたり、書こうとしてる題材について本を借りて下調べしたり、地味にちゃんとした手順を踏んでたりします。

また、僕の場合「プロットを書いて実際に作品を書く」という反復を、ワナビの頃から数えてもう何十回も繰り返してるので、実際に書いたときのイメージが結構はっきり出来てますし、設定に対してどれぐらいの枚数が必要かの見当もわりとできてる方だと思います。
この経験が足りないと、ウケそうな要素を詰め込みすぎてテーマがブレてしまったり、規定枚数で話が納まりきらなかったり、何枚書いてもドラマらしい展開が始まらなかったりと、書き始めてから修整する羽目になります。何度もなった。
詰め込みすぎず、シンプルに、テーマに対して必要な設定と人物だけで、正確な切り口でストーリーを組むって、案外やろうと思っても難しいものなんですよね。
いっそ、一回シナリオを実際に最後まで書き切ってから、企画意図を書き始めるぐらいの手順でもいいんじゃないかと個人的には思いました。

とはいえ、僕の発表も講師の先生から色々とアドバイスを受ける点は多く、中でもショックを受けたのは「今回のテーマで同じ題材の作品はかなり多いと思う」という一言でした。
具体的になんの題材かは言わないんですが、「他の講義でも同じ題材の発表者は何人も居て、賞に出すと埋没する可能性が高い」という指摘をいただいた次第です。
自分なりに「テーマに合っててドラマらしくて今のご時世にあった題材を・・・」と精一杯考えた結果、ど真ん中を抜きすぎてレッドオーシャンに気付かず突っ込んでしまったというのは盲点でした(笑)
ただ逆に言うと芯を食ってる手応えはあったので、そこで埋没しないための戦略が必要になりますし、ちょっと高めのハードルで頑張ってみたいと思います。

それと今回、ちょっと焦ったことがあって。
グループワークで人と企画書を見せ合ってるとき、ついうっかり「この主人公ってAよりBの設定の方が良いと思うんですけど、なんでAにしたんですか?」と、口を滑らせてしまったりもしました。
ラノベの新人賞に送ってたワナビ時代、こういう直球なダメ出ししてしまっては相手に嫌われて険悪になるということがしょっちゅうで、控えようと思っていたのがうっかり出てしまったんですね・・・。

ただ幸いなことに、相手の方も「確かにBの設定は思いつかなかった! そっちでもアリですね!」とすんなり話に乗ってくれて、講義の後も結構話が盛り上がったりしました。
そのままなんだかんだ話が盛り上がって、講義の後も「ちょっといっしょに飯行きましょうか」という流れになって、2時間ぐらい延々とシナリオの話で盛り上がってきたって感じです。
2時間も飽きずにドラマやシナリオの話だけで話題が続くって結構貴重なことですし、「久しぶりに同じ部族の言葉を話す人間に会ったな」みたいな感動がありました。

話を聞いてみたところ、相手の方はすでにシナリオの基礎講座を受けてて賞にもコンスタントに出しているというガチ勢な人で、「客観的な指摘がもらえるのがシナリオセンターの良いところ」だと仰ってました。
僕自身、そういった切磋琢磨みたいなことがやりたくて行きたくなった側面もあるので、こうした意見交換の場ができるのは「来てみて良かったな」という感じです。
「同じ趣味の仲間が欲しくて習い事に通う」というのは社会人によくある話ですが、僕もある意味そういうことがしたかったんだなーと実感した次第です。
全員が全員「お互いガチで殴り合って成長しようぜ!」というノリの人たちばかりではないと思うので、相手はちゃんと選ばないといけないんですが・・・。

もし僕と殴り合いたい人がいたら10月からの講座にぜひ申し込んでみてください(笑)

ではでは、また来週。

元ラノベ作家だけどシナリオライターの学校に通うことにした#2 『企画書講座①』

前回:元ラノベ作家だけどシナリオライターの学校に通うことにした#1 『なぜ通うことにしたかという前説』 - Funny-Creative BLOG

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前回「シナリオライターのスクールに通うことにしました!」と前説をさせていただきましたが、本日からいよいよ通い始めました。
今回受けたのは『企画書講座』というものです。

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ちなみに講師である柏田道夫先生は映画『武士の家計簿』の脚本を手がけた実績のある人気の高い先生で、既にシナリオセンターに通っていた友人からも「凄くいい先生だよ」と噂を聞いてました。
しかも実は僕自身、「ちょっと書き方の勉強をしとこう」と思って吉祥寺の本屋で手にとって買ってみた『シナリオの書き方』という本が、偶然にも柏田道夫先生の著書でちょっとビックリでした。

良い本だったので、興味のある方はぜひチェックしてみていただければ。

シナリオの書き方―映画・TV・コミックからゲームまでの創作実践講座

シナリオの書き方―映画・TV・コミックからゲームまでの創作実践講座


そもそもなぜ企画書の書き方講座を受けようと思ったかというと、実は実際の映像作品の現場だと、「まず脚本家からプロットや企画書をコンペ形式で集める」というところから始まるそうです。
いきなりシナリオを送りつけて審査されるのは新人賞みたいな公募の賞だけで、実際に審査されるのは企画書なんですね。
確かに送られてくるシナリオを100本も200本も読むわけにはいかないので、ある意味書類選考みたいなもので、企画書は要するに就活における履歴書の書き方みたいになってきます。

今回講義では送られた企画書がどのようなプロセスで採用されて映像化されるか、またどんな意図で企画書が選ばれるかという話を、業界の実態をベースにお話していただきました。
技術論そのものというよりシナリオを取り巻く環境の話が主なものでしたが、実際に仕事されてるプロの方から業界の内部の話が聞けるのはそれだけで価値がありまくりです。

それと講義のなかでチラッと「最近は原作付きのドラマが多くてオリジナルが減ってきているのが残念」という話をされていたのが印象的でした。
僕が作家として口癖のように言っている「オリジナルに挑戦する人間がどんどん減っている」というのは、業界問わず日本のエンタメ全般に蔓延してる症状なのかもしれません。

閑話休題

とりあえず講義の流れとしては、現在募集が行われている『朝日新人シナリオ大賞』という公募の賞に送ることを前提に企画書を書いてみるというものでした。

僕もせっかくやるからには、実際に書いて応募するところまでやってみようという気合いでプロットを考えてたんですが、今回のお題が結構難しいですね。
「サスペンス」と「25才」ってあまりにふわっとしすぎて、何をどうすれば芯を捉えることができるのか、今日一日ずっとそればかり考えてました。
講義の中でも話していただいたんですが、サスペンスっていざ定義しようとしてみると難しいですが、とりあえず「これをやったらホラー」「これをやったらスリラー」という消去法で外郭を削りながら一つアイデアを考えました。

そして今回、宿題として出されたのは「企画意図」という部分を考えてくるというもので、要するに「どんな層に何を伝えたいか」を明文化して具体的にするというものです。一言で言ってしまえばテーマみたいなものですね。

実際、僕はプロットを既に考えた状態で講義を受けてたんですが、「企画意図」を改めて考えてみるとさっぱり浮かばなくて、逆に「どんな人物像やストーリーにすれば企画意図が埋まるだろう」と考えてみました。
そうすると、ただのアイデアや筋書きでしかなかったプロットに、「視聴者に共感させるためにどんな主人公の造形にするか」とか「どんな職業にしたらテーマ性が生まれるか」というディテールの作り込みが勝手に生まれていったんですね。

僕の場合特に、ラノベやアニメばかり見てきた人間なので、「現実世界に暮らす普通の人間」にどうキャラとして味付けをするか、実は結構考えるのに苦戦していたりしました。
それに対して、テーマや大義名分を与えることで逆説的にキャラクターが固まっていくというのは面白い体験でしたし、こういう発見があったのも講義に出てみて良かったと思った点です。


講義が終わったあと、シナリオセンターの窓口で『月刊ドラマ』という冊子を買って帰ってきました。

今回賞へ送るにあたって前回の受賞作がどんな内容か目を通しておきたかったんですが、この冊子に載ってるということで早速買ってみたわけです。
僕もラノベの新人賞で賞を取るために、各レーベルの受賞作を30冊ぐらい買って目を通してみたことがあったんですが、傾向やノリみたいなものを掴むのに実際の受賞作を読んでみるって経験上かなり大事なことなんですね。

今週はこの本で受賞作に目を通してみながら、応募用シナリオのプロットを煮詰めながら来週の講義に望みたいと思います。

とまあこんな感じで、各講義の内容を、今後もネタバレしすぎない程度に書いていってみたいと思います。

朝からフルタイムで仕事して講義受けてブログ書いて、おまけに小説も進めなきゃいけなくってと、結構慌ただしいですが、やっぱり好きなことに対する努力だと不思議と疲れないですね。

それではまた次回。

元ラノベ作家だけどシナリオライターの学校に通うことにした#1 『なぜ通うことにしたかという前説』

こんにちは、幾谷正です。

ネット上では「打ち切られるはずだった作品を同人として継続して自力で電子出版し続けている」という経歴の元ラノベ作家ってことになってます。
セカイ系SFロボットラブコメノベル『アーマードール・アライブ』おかげ様で順調に作品は第5巻を発売しまして、第6巻も順調に執筆中です(宣伝)

アーマードール・アライブ ? 〜持たざる者と嫉妬の悪魔〜

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公式サイトはこちら↓
armordoll-alive.funny-creative.com

「作家が自分で製本も販売も宣伝も行えば出版社とか要らんやん」という思想を発端として書き続けてきましたが、正直この試みは完全に成功していて、あとは完結まで書き続けるだけという状態です。
ただそれとは別に、僕という人間個人にとって、この活動一本で食えるわけでもないし、何か先が見えているわけでもない。
今後も同じ活動を続けていくかというと体力的にも気力的にも難しいと思っており、行き詰まりも感じ始めていました。

ところで僕は本業では、東京でWEBエンジニア兼社内SE兼ライターみたいな三足のわらじを履くような仕事をしています。
たまに「せっかく元ラノベ作家って面白い設定があるので何か活かしたいな」とは言っていたのですが、そうそう都合良くそんな話が来るはずも無く・・・と思いきや。

社内のちょっとした事情から「ちょっと漫画を作りたいからシナリオとか書いてみてくれない?」という無茶ぶりが社内で発生しまして、「そういうことならやりますよ」と二つ返事で承諾。
そんな案件が2件、3件と立て続き、WEBエンジニアのくせに3作目の漫画原作シナリオをなぜか作成中という状況になってます。

そもそも僕がラノベ作家を目指した経緯って、実を言えば最初から「ラノベ作家になりたい」と思って書き始めたわけではなく、どちらかというとラノベよりアニメとか映画のような映像作品が好きなオタクでした。
ただいきなり自分のような何の専門性のない素人が「アニメで仕事をしたい!」と言ったところで無理なのはご承知の通りだと思います。
(事実、大学4年次にアニメ制作会社の新卒採用を何件か受けてみましたが全滅しています)

そもそも脚本家とかシナリオライターという仕事について、実際に活躍している人の名前は毎日作品のクレジットで目にしますが、どうやってなるものか点でわかりませんでした。
wikipediaで経歴を見てみても「業界関係者の知り合いだった」とか「舞台脚本の仕事をしていたらスカウトされた」とかの偶発的ななり方ばかりで、確実性のあるものが一つもありません。
そういうわけで、「とりあえず何かしらの形でデビューしておけばチャンスもあるだろう」と考えてラノベ作家を目指して、新人賞を得たというわけです。
「作家として仕事して上手く成功していけば、いつか映像業界で仕事するチャンスがあるかもな」という打算の部分が大きかったのです。

ただデビューから3年経って編集との確執や炎上を機にラノベ作家を表向きには辞め、創作はあくまで副業や趣味としてやろうと決めて本職のエンジニアを続けてきました。
僕が知る限り、ラノベ作家を辞めた人間の取るルートには幾つかの選択肢があって、その一つがまったく異業種で普通の仕事に就くという僕の取ったパターンです。

他にも、同時期にデビューしたラノベ作家の多くがソーシャルゲームのライターになっているのを耳にしました。
自分もそちらの業界から何度か誘いを受けましたが、“射幸心を煽って賭博をさせる”というガチャのシステムが自分の倫理観の中で肯定できず、やはりこちらに行くこともありませんでした。
あるいは「『小説家になろう』で異世界転生を書いて作家として再デビュー」みたいな路線に入るパターンも見かけましたが、あの手の作品の面白さがどうも自分にはよくわかりません。

それよりは、普通の仕事をしながらでも、自分の作品をしっかり完結まで書き続け、汎用的に使える作劇の技術の研鑽をしたいというのが僕の中のポリシーでした。

流行や時流に流されず、自分自身の研鑽のために作品を書き続け、そんな折りにシナリオライターの仕事が降って湧いてきたというわけです。

商業作家を辞めてから5年経ってるとはいえ、僕自身はその5年間、プロとして手を抜かないクオリティを維持しながら電子書籍を5冊も出してきました。
1冊につき20万文字ぐらいとして、合計100万文字を趣味で書き続けてきたわけです。

これが普通のサラリーマンなら「シナリオを書くなんて無理です。プロにお金出して任せましょう」となるところ、僕にとっては朝飯前も同然の仕事でした。
内容としては魔法もSFも美少女も超常現象も出てこない、普通の現実世界を舞台にしたものですが、科学考証や世界観設定をしなくていいぶん、むしろ楽なぐらいの仕事でした。
そして「こういうものが書けるなら、別に実写映画でもドラマでも、シナリオさえ書ければ僕は楽しめる人間なんだな」と結果的に気づくこともできました。

しかも結果的に考えてみれば、「ラノベ作家になればシナリオライターになれるかも」という甘い考えで始めた結果、本当にシナリオライターの仕事ができたわけです。
デビューしてから、編集とケンカしたりカドカワに圧力かけられたりネットで炎上したりと嫌なことばかりでしたが、最近になってようやく自分のやってきたことを肯定的に感じられるようになりました。
ただ、下手に自分をラノベ作家だと思い込んでたせいで、もっと広い可能性があったのに自分で自分を縛っていたんだなと反省することも同時にありました。

社内でシナリオの仕事をしていると言っても、偶発的に発生した2~3件の仕事で、今後も継続的に同じ仕事が続くわけでもありません。
また、「シナリオライターとして仕事をした」とは言っても、正しい脚本の書き方や手順も知らず、独学の知識と技術だけでは結構限界があるなとも感じました。

そういった経緯から、本格的にシナリオライターとしての技術を学んでみようと思い立ち、青山にあるシナリオセンターの存在を知って半年間の講座に出てみることにしたわけです。
こういうものがあるともっと早く知っていたら、もっと早く通い始めてたんですが、ちょっと情報を知るのが遅すぎました・・・。
現役で脚本家の仕事されてる方の多くもここのスクールを出ている人たちらしく、自分も心機一転、キャリアの積み直しをするつもりで1から基本を学び直してきたいと思います。

「すでに作家デビューもしてて、シナリオライターとして仕事もしてて、いまさら学ぶことがあるのか?」と聞かれそうですが、僕も正直通ってみるまでよくわかりません。
ただ独学でやってきてしまった自分には、業界の人間なら知ってて当たり前の知識や基礎はたくさんあるのだと思います。
自動車で例えれば、無免許で運転してはきたけど交通標識の読み方は一つも知らないぐらいのものです。

また、センスや勘だけで書くのでは書けるモノに限界がありそうなので、そういった要素を補える技術も習得できたらと思います。
特に、シナリオって教えられたり強制されない限り、自分の好きなものしか書かなくなってしまうので、課題で色んなものを書かされる環境に身を置いてみるのは成長に繋がりそうだなと思います。

本業ではWEBエンジニアを名乗ってるくせに、言語に関する技術は全然やる気ないんですが、シナリオに関しては何でも学んで見たいというモチベーションが我ながら結構高いです。
こういう部分も性分として、自分はけっこう向いてるんだなあと改めて感じました。

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10月16日(水)から毎週水曜に半年間、夜18:30から2時間ぐらいの講座があるそうで、こちらに通ってみるつもりです。
すでに申し込み登録は済んでるので、もう後には引けない感じです。

またせっかくなので、講座を受けての感想とか、どんな課題をやったとか、可能であればこのブログで今後もレポをお伝えしていければと思ってます。

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それと、来週の9月11日(水)から5回ほど、企画書講座というものも開かれるそうで、本講座の前にこちらの方にも出席してみたいと思います。

ちなみにこれらの講座の学費は全て、これまで電子書籍を出版して得た売り上げから出させていただきました。
小説を書いて得たお金で創作を学びにいくって、我ながら究極のエコシステムって感じですね(笑)

応援していただける方がいらっしゃいましたら、ぜひ学費のカンパも兼ねて電子書籍を買って下さい!(再度の宣伝)

半年の講座のあと、もう半年ほどゼミ期間があって、合計一年間かそれ以上の期間スクールを通うことで、いちおう修了になるそうです。
そのあとはシナリオライターとしての選択肢が幾つかあるみたいなんですが、いきなりコンペや賞に出してデビューを目指すのか、もうしばらく本業に専念するのかはちょっと未定です。

とりあえず、作品を完結まで継続してみることで、多くの長編を書くための技術が学べる場にはなってるので、『アーマードール・アライブ』の連載は今後も続けて行く予定です。
読者の皆さんはご安心していただければと思います。

ただ、今後シナリオライターとして活動するうえで、今の「幾谷正」という名義はできるだけ使わず、別人として活動していきたいというのが本音です。
過程はどうあれ問題を起こしてしまったのは事実ですし、売れないラノベ作家という烙印がむしろ仕事の邪魔になることも多そうなので・・・。

また、ラノベ作家という仕事を今後またやりたいかと言われたら、正直言ってやるメリットはやっぱり感じられないですね。
どうせ作品を出すだけなら個人で電子出版すればいいですし、どうせ異世界転生以外は売れない市場なので、無理して書きたくないものを書いてまですがりつくメリット無いですし。

これからラノベ作家を目指す人や、自分のように辞めた人にとって、どんな道があるのかを示す意味でも、今後もレポートは残していくつもりです。

以上、幾谷正でした。
来週は初回の企画書講座のレポをアップできるよう頑張ります。

巨大ロボットや変身ヒーロー作品における個人と役割の対立とブラック公僕ドモン・カッシュ

※この記事には『アベンジャーズ/エンドゲーム』『トイ・ストーリー4』『機動武闘伝Gガンダム』『宇宙の騎士テッカマンブレード』のネタバレが含まれています。

今年の5月、あの話題の『アベンジャーズ/エンドゲーム』を見に行きました。
あれだけ「アベンジャーズが終わる」とCMで言われていたのに、「いやいやまさか本当に終わるわけないじゃん」と思って見に行ったんですが、見に行ったら「本当に終わった!?」って結構度肝を抜かれました。
それぐらいあの完膚なき終わりっぷりには衝撃を受けましたし、大好きなキャプテン・アメリカ「自分の人生を生きてみようと思った」というセリフは、寂しくも味わい深いセリフでした。

また先月はネットで色々と話題になっていた『トイ・ストーリー4』も見に行きました。
ネットの前評判でかなり評価が分かれていたとおり、僕も見に行って「面白いけどちょっと違うな・・・」というテンションで劇場を出ました。
仮にこれが「トイ・ストーリーが終わる」ってCMで言われて見に行ったなら良かったんですが、好きなアイドルのコンサートを見に行ったらいきなり引退発表をされたぐらいの戸惑いがありました。

さて、作品の評価や感想はさておき、僕がふと気になったのはこの『アベンジャーズ/エンドゲーム』も『トイ・ストーリー4』も、一つの共通のテーマに基づいて描かれて居ることに気がつきました。
それはキャプテン・アメリカというヒーローや、ウッディというオモチャが、永きにわたって担ってきた自分の役割を引退する物語だったという点でした。

役割に命を賭けることを美徳としてきたヒーロー像

彼らヒーローは作中の時間軸において長い時間と人生をかけて自分の役割を果たし、我々ファンはシリーズを長い時間追いかける中でその姿を追いかけてきたわけです。
ただ多くの作品において彼らの最後は、「役割を果たして個人の人生を捧げること」を美徳として描いて終わることが多いと思われます。

その点で『アベンジャーズ/エンドゲーム』が非常に“新しい”なと感じたのは、ヒーローの最期の描き方の対比です。
アイアンマンというヒーローの役割に殉じたトニー・スタークの死を痛ましいものとして描く一方で、キャプテン・アメリカというヒーローを降りて自分の人生を生きたスティーブ・ロジャースの引退を非常に綺麗なものとして見せていました。

これまで「兵士なら戦って死ぬべき」「戦士は戦場で死ぬのが役割だ」というテーマの作品を無意識に賛美し、それが当たり前の価値観であるかのように思い込んでいた部分があると思います。
むしろ「ヒーローが自分の役割を捨てて自分の人生を生きる」という物語は役割からの逃避や責任の放棄として否定的に描かれることが多かったテーマだったと思います。
その点で「死以外の形でヒーローがその役割から降りて個人に戻る引退の物語」を描いた『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、キャプテン・アメリカというヒーローのファンとしては非常に納得する部分が多い作品でした。

そして同時に、キャプテン・アメリカというヒーローはそもそも“第二次世界大戦で戦った肉体改造を受けた軍人”という設定であることは注目されるべきだと思います。
彼は「実在の軍人のメタファー」という要素を内在したキャラクターであり、彼の人生が「退役して自分の人生を生きた兵士」として描かれた事実は、それだけでも現実に対して価値ある結末だったと思います。

だって実際に国のために戦っている軍人が、フィクションの中だったとしても「兵士は戦って死ぬべき!」「生きて帰ってきた奴は逃げ帰ってきただけだ!」なんてテーマの作品を見せられるの、いくらフィクションでも嫌なものが有ると思います。
このあたり、軍人という存在が日本よりも身近なアメリカの文化や社会において、「引退した兵士がどう生きるべきか」というテーマは時代性と照らしていい加減にできないテーマだったんじゃないかなと思います。

そもそもヒーローとは役割と個人の対立である

そしてこの考えに至ったときふと思ったのは、「そもそもあらゆる作品のヒーローというのは役割と個人の対立を描くためのテーマじゃないのか」という気づきがありました。

変身ヒーローの場合は「突然なんらかの偶然で力に目覚める」というタイプの作品が多いので意識しづらいですが、『スパイダーマン』に出てくる名フレーズ「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉は、スパイダーマンに限らずあらゆるヒーロー作品に対して当てはめられる共通のテーマかなと思います。

それに対して巨大ロボットの場合、組み立てるにも運用するにも修理するにも多くの人間の力を借りる必要があり、それは所属する組織や人間関係などと切っては切り離せません。
多くの人間が関わって生み出されたロボットのパイロットという役割を、誰が担うのか、どうその力を扱うのか、というストーリーは「与えられた役割をどう全うするか」というテーマに他なりません。

早い話、「巨大ロボットのパイロット」とは「社会から与えられた仕事」であり、主人公の役割とは「社会から与えられた仕事を全うすること」なのです。

これをメタ的に作品の設定に取り入れたのが『地球防衛企業ダイ・ガード』や、武装の使用に政府の認証をいちいち必要とする『勇者王ガオガイガー』だったりします。

日本でこれだけ多くの巨大ロボット作品が作成され愛されてきたのは、「与えられた役割を個を殺して果たす」という挺身の精神を美徳とする日本の価値観にマッチしていたからこそではないでしょうか。

ブラック公僕ドモン・カッシュ

「個を捨てて役割を果たす」という日本の主人公像を紹介する例として相応しいキャラクターを考えたとき、例として最も相応しいと思ったのが『機動武闘伝Gガンダム』の主人公ドモン・カッシュでした。
彼は自由気ままに私情で行動する熱血バカの格闘家――と本編を見てない人からは勘違いされがちですが、その実態は紐解いてみると全く真逆です。

  • 国同士の利権を賭けて争う代表戦争制度ガンダム・ファイトのネオジャパン日本代表(戦争の最高責任者とオリンピック代表を一人でやらされてるようなもの)
  • 身内が起こしたアルティメット・ガンダムの暴走事故の責任を取る形で、父親を冷凍刑で国に人質に取られ、指名手配犯となった兄を追う特命捜査を命じられている。
  • 古くから「秩序の守り手」と呼ばれ、歴史上の数多くの戦いや事件を陰から調停したというシャッフル同盟の後継者として任命されている。

といった感じで、番組開始の第1話の時点で既にこれだけ大きな役割を3つもいきなり与えられています
オリンピック代表選手と国際警察とNPO団体をいきなり一人でやらされてるようなものです。ガンダム主人公の中で誰よりも任務に忠実なブラック公務員です。

ただし番組前半のドモン・カッシュという個人は「家族を裏切った兄を追う」という復讐の心に燃えており、個人と役割は一致しており対立を起こしてはいません。

問題は、「アルティメットガンダムを暴走させた犯人と思われていた兄が、実は巻き込まれただけの被害者だった」と判明する番組後半の第44話「シュバルツ散る!ドモン涙の必殺拳」です(改めて見てもスゲ―タイトルだなこれ)

ドモンはデビルガンダムと化したアルティメットガンダムを止めるため、大好きな兄を自分の手で討つことを迫られます。
そこでドモンは「嫌だ・・・僕には出来ない!!」と弱り切った声を上げます。彼はずっと俺口調で話してきたのですが、この回で初めて僕という一人称を使います。
これは声優である関智一さんのアドリブだったとも言われてますが、どちらにせよ、彼がドモン・カッシュという個人の心情を吐露したセリフとして非常に印象深いものになっています。

結局兄であるキョウジ自身から「甘ったれたことを言うな! その手に刻まれたシャッフルの紋章の重さを忘れたか!」「お前もキング・オブ・ハートの紋章を持つ男なら、情に流され、目的を見失ってはならん!」と発破をかけられ、最愛の兄をその手にかけることになってしまいます。

このシーン、素晴らしく熱い名シーンではあるんですが、ちょっと視点を変えると「役割を真っ当するために家族を殺すことを強要される」という中々にヤバいテーマも内包されてしまっています。
「仕事が忙しくて親の葬式にも出られないブラック公務員」なんて目じゃないレベルの公益遵守精神です。

結局ドモンはその後も、キングオブハートの後継者として最愛の師をこれまた討ち、ガンダムファイトで優勝し、与えられた役割の全てを見事に全うしてみせます。
任務に忠実という設定になってるガンダムWヒイロ・ユイよりしっかり役目をこなしてます。ヤバいですね。

ただこのGガンダムという作品が素晴らしいのは、ただそれだけで結末とせず、第46話から最終話にかけて「ドモン・カッシュという個の確立」までもを追っているところです。
その結末は既に作品を見終えている皆さんにとっては周知の事実なので今更語りませんが、まだ見てない人にはぜひその目で確かめて欲しいです。

Gガンダムという作品は一言でまとめると「ドモン・カッシュという個と、キングオブハートという役割の合一する過程」の物語であり、そのシンボルであるハートマークが一貫して使われ続けるのはマジで頭がおかしいぐらいよくできてますね。
言わば仕事も恋愛も手に入れたスーパー公務員です。

正直、全ガンダムシリーズの中でも三本の指に入るぐらい、しっかりとしたシナリオに支えられた視聴後の満足度が高い一作だったなと思います。

役割に殉じてしまったヒーローたち

そしてドモンとは逆に、個を本当に役割に捧げきってしまったヒーローという主人公像も存在します。

たとえば『宇宙の騎士テッカマンブレード』の主人公テッカマンブレードはその典型でしょう(あえてDボゥイと呼ばない)
このアニメはGガンダムの2年ぐらいまえに放送されたアニメですが、こちらも「役割を果たすために愛する人たちを手にかける」という作品のテーマは共通しています。

ただGガンダムとの決定的な違いは、「役割を果たすために個を殺す」物語だったという点です。
彼が最終話で放った「Dボゥイも相羽タカヤも、今ここで死んだ! 俺は……テッカマンブレードだ!!」というセリフはまさにこの作品を一言で表しきっている名台詞なんですが、マジで「役割のために全てを犠牲にしてしまった男」なんですね。
過労死鬱病寸前まで陥ったブラック社員のブレードさんでしたが、なんとか無事に生還できたという意味で『テッカマンブレードⅡ』は僕は良かったと思ってます。いや良かったですよね?

他に「殉じた」というわけではありませんが、「与えられた役割を全うしていたら知らないうちに犠牲にされていた」という物語が『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメの一側面でもあります。
実は初代のエヴァGガンダムと同年代のアニメなんですが、作品としての完成度とか読後感だけで比べるなら僕は圧倒的にGガンダムの方が見るべき名作だと思ってますね。

主人公碇シンジの名台詞と言えば「僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット碇シンジです!」ですが、結局彼が「エヴァンゲリオンパイロット」という役割を果たすことで、事態は取り返しがつかないほど悪化し、彼の個を捨てた献身は他人に都合良く利用され続けていきます。
ドモンが最愛の師匠を手にかけることで自身の役割を全うしたのに対し、碇シンジは友人である渚カヲルを手にかけたことで決定的に破綻し、主人公も作品もその世界もついでに監督の精神まで巻き込んでぶっ壊れてしまいます。
これはある意味「与えられた役割を無思慮に果たす熱血アニメの主人公に対するアンチテーゼ」として当時は斬新だったと思えるんですが、結局「役割の否定とはロボットアニメというジャンルそのものの否定にしかならないのではないか」と僕は思いました。

働き方改革を求められるヒーローたち

アベンジャーズキャプテン・アメリカを引退させたように、社会は「ヒーローの死を尊く描く」価値観から脱却し、個人の救済をテーマに物語を作り始めているのが世間の潮流だと僕は感じています。
これは日本のロボットアニメというジャンルが国際的に広がっていくためにも必要な過程で、いつまでも過労死するパイロットを描くのではダメなのかなと思ってます。
ロボットアニメも働き方改革を求められてる時代です。

アーマードール・アライブ  Ⅰ 〜死せる英雄と虚飾の悪魔〜

アーマードール・アライブ Ⅰ 〜死せる英雄と虚飾の悪魔〜

たとえば僕も同人サークルとして、巨大ロボットモノのライトノベルを書いていますが、この作品の第1巻のモチーフは「自分を犠牲にして戦ってきた主人公が個を取り戻す」という過程を描いてます。
作中で主人公が「ワーカーホリック」と揶揄されるギャグを入れてるんですが、このギャグはテーマに対して意図的に入れたものでした。

もし自分の作品を書いている人が見ていたら、「主人公の個と役割」を一度具体的な形に明文化してみて、それがどう対立しているのか、あるいは合一していくのかを意識してみるとドラマが作りやすいと思います。
逆に「ヒーローとは役割=仕事である」というメタ的な視点を逆手にとって、『敵が出現してしまい娘の誕生日パーティーに間に合わない変身ヒーロー』みたいなモチーフとか考えつくかもしれないですね。

ただどちらにせよ、「役割を全うするために個人の幸せを犠牲にする」という作品がウケにくくなってしまったのは、今のご時世的に仕方ないのかなとも思いました。

終わり。

小説を100万文字書くよりガソリンをまいて燃やす方が簡単だったのにどうして僕はまだ小説を書いているんだろう

ja.wikipedia.org

「創作をやったことがない人は知らないかも知れないけど、小説を100万文字書くよりガソリンをまいて燃やす方が簡単なんですよ」

先日の京アニの放火事件を受けて僕はこのようなツイートをTwitterに投稿したところ、色んな人に不謹慎だと怒られたりテロ擁護だと叩かれたりしてしまいました。

このツイートが原因かは分かりませんが、その数日後、Twitterのアカウントが急に凍結されてしまい、僕は本気で「TwitterJAPANにガソリン持って乗り込んでやりたい!」と怒り狂ってしまいました。
皆さんもご存知のとおりTwitterの凍結基準は年々厳しくなる一方で、一度でも凍結を受けたことのある人間は「反省の余地無し」と見なされ以降のアカウントの作り直しが認められません。
一度丸の内にあるTwitterJAPANの本社で受付から電話越しに「どうして作り直しが認められないのか」と抗議に言ったことがありますが、「お答えできません」の一点張りでした。

とはいえ、僕は同人サークルとして作品を販売している都合上、どうしても作品の宣伝や新規ファン獲得のためにTwitterを利用する必要があります。
自作した作品の公式サイトにGoogleAnalyticsを設置していますが、集客はほとんどTwitter頼りですし、Twitterから撤退するとアクセス数に天と地ほどの差ができてしまいます。
それにTwitterでつぶやくことで興味を持って新規の読者になってくれる方も数多く、売り上げは順調に伸びている状況です。
どれだけ「Twitterは悪口ばかりで悪影響だ」とか「規制がキツくてつまらなくなった」といったところで、世間のオタクたちがTwitterからしか情報を集めない連中ばかりになってしまっているのは紛れもない事実でしょう。
自分が作家として再起するためには、不本意ではあってもその支配的な状況に迎合する必要があるわけです。

幸い抜け道はあるもので、色々と手を尽くせばアカウントの作り直しはできるし、作品の宣伝をするチャンスは永久に失われたわけではありません。
僕はまた性懲りもなくアカウントを作り直しますし、多少怒りや不満を覚えたりはしますが、おそらく悪意を持ってTwitterの本社に突撃することはないでしょう。

ただ、「一度でも失敗した人間に二度と再起のチャンスは与えない」という現実を突きつけられるたび、どうしても「燃やしてやる!」と思わずには居られなくなります。
それは今回の凍結の件に限らず、日本で暮らしているとそういう感情に駆られる機会は本当に多いですし、自分が作家として活動する中で何度もこういう思いを抱くことがありました。
幸い実行はしないで済んでいますが、いつ自分が青葉真司容疑者のような行動に出てもおかしくなかった時期があったと本気で思っています。

今回の事件は痛ましいものですし、犯人を許すべきではないと思いますが、同時に「こういう事件を二度と起こさないためにはどうしたらいいか」と考える必要もあると思いました。
その糸口を考える上で僕は、自分が一度そういう気持ちに駆られたことのある人間として、なぜ自分は踏みとどまれているのかという自分の内面について真剣に考えていました。

最初に言った「ガソリンをまいて燃やす方が簡単だ」という言葉は、その過程で出てきた言葉だったりします。

別に僕の言ったとおりにしたところで事件の再発が防げるわけではないですし、むしろ今後もこういった事件は無くならないだろうとすら思っています。
ただ自分の内面を観察する中で、自分がどうして創作を続けているのか改めて気づくところがあったので、この機に言語化しておきたいと思います。

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「ほならね自分がやってみろ」と100回言われても何もしなかったお前は耳と目を閉じ口を噤んで孤独に生きろ

ネットには〝ほならね理論〟という言葉がある。

ほならね理論とは (ホナラネリロンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

詳しい解説は引用先に任せるが、簡単に言えばクリエイターや作品を発表する人間が文句を言われたとき、視聴者に対して「自分でやってみろ」と返すことをこう呼ぶそうだ。

そしてこの〝ほならね理論〟は、発言したyoutuberがネットでネタ的に扱われることもあって、発言そのものもまるで一笑に付すべきもののように扱われている。

ただ僕は正直、この「ほならね理論は悪」という決めつけが、正直なところ全く理解できない。
だってこれ、自分では何もしないで人のやることに口だけで文句つけるような連中が、自分にとって都合が悪いから必死に「悪い言葉だ」って言い張ってるだけじゃないのか?

別に僕は「お前達にはどうせできないだろう」だなんて全く思っていないし、煽るつもりは全くない。
心から本気で「その気持ちが創作を始めるための第一歩だよ」と思って声をかけている。

僕自身も他人の作品に対して色々と不満に感じたりすることがあり、その気持ちが高じて「自分ならもっと上手くシナリオが書けるはず」と思ったことで小説を書き始め、ライトノベルの新人賞を取って商業デビューまでした。
実際、自分でやってみたことでシナリオやキャラクターを考え、魅力を伝えていく作業がどれだけ大変か思い知ったし、逆に他人の作品の粗に対してもより敏感になった。

また、最近は編集や出版という作業すら「俺にやらせろ」と思い始め、個人で電子出版をしてシリーズを続けている。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B075TTY2YC/www.amazon.co.jp

自作の宣伝はさておき、僕は〝不満を抱く度に自分を変える努力をしてきた人間〟だ。
だからこそ思う。
お前らはなぜ何もしないのだ? と。

たとえばお金を出して買っている作品に不満があるなら、次からその作者の作品を買うのをやめればいい。
もし許せる程度の不満があるなら「次はもっとこうしてほしい」と、読者なりの純粋な思いを作者にぶつければいい。
これは作家として活動している僕自身、期待を持ってもらえるのはとても嬉しいことだと思うので、少なくとも僕は言って欲しい。
そして「この作品をどうしてもよくしたい」と思うなら、例えば自分が制作者サイドの人間になるために企業へ履歴書を送ったり、制作者にメールを送るのは、間違った行動ではない。
実際、そういう形で作品に関わり公式側になった人間というのは、創作に限らず一般の商品でもサービスでも数多い。
君に本当に相手への愛情があり、変えたいと願うなら、君は行動するべきだ。

そして、自分がお金を出して買ったわけでも、中身に触れたわけでも、ファンとして期待しているわけでもない赤の他人の作品に対して、君が言うべき言葉は何も無い。
作品がどうあるべきかは作者と読者が決めるべきことであり、君は作品にとって何の関わりもないただの他人だ。
仮に君がどれだけ賢く優秀で世の中のことが何でも分かる万能の知性があり、それを誇示したいのだとしても、読んでもいない作品がどうあるべきか、君に決める権利はない。

例えば小説を書くとか、youtubeで配信をするとか、コードを書いてプログラムを組むとか、ネットにはそういう作り出す活動をしている人たちが数多くいる(僕はこの三つを全部やっている)。
彼らはまるで当たり前のように「誰でもちょっと頑張れば簡単にできることですよ」と言うが、実際僕もその通りだと思う。やろうと思えば意外に簡単にできるものばかりだ。

だが、まだ何もしていない君たちは、まだ何もしていない人間だ。
その作り出す作業にどんな苦労があり、どんな気持ちになり、どんな問題があるか、何も知らない。
君たち無知な人間の言葉はあまりにも稚拙で現実を見ていない、見当外れなものばかりだ。

そして、それでも「俺の考えるアイデアの方がもっと素晴らしい」と本気で思うなら、ぜひ実践して、証明してくれ。
君が成功し、僕たちに道を示し、新たな可能性を切り拓いてくれることを心から望んでいる。

だが君たちは、僕たちがどれだけ期待をこめて「やってみろ」と言っても、結局いつも何もしない。
ただ世の中に溢れる作品や商品に対して、不満を並べ、自分を変える努力もせず、思い通りにならない作品とわかっていながらなぜか律儀に金だけは払い続ける。

たとえば不満を言いたくなるようなコンテンツには、わざわざ自分から触れないように努力してほしい。
たとえば改善の望めない作品に不満があるならば、自分はファンでないのだと諦めて作品から離れてほしい。
たとえばどうしても諦められず変わって欲しいと思うなら、自分で作るための行動を始めてほしい。

そして、もし君が自分を変える努力を何一つしないと言うのなら、耳と目を閉じ口を噤んで孤独に生きてほしい。