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電子書籍作家の幾谷正が個人出版の最前線で戦う話

文化作品は人を差別するために生まれたんだから差別的じゃない作品なんてそもそも存在しねえよ、という話

ズートピア (吹替版)

ズートピア (吹替版)

  • 発売日: 2016/08/10
  • メディア: Prime Video

先日、ディズニーの傑作アニメ『ズートピア』が地上波で放映されました。
皆さんはもうご覧になりましたでしょうか?

僕は見るのがこれで3回目ですが、何度見ても素晴らしい映画だなあと思いました。

そして、改めてこう思いました。

「差別ってなんて素晴らしいんだろう!」……と。

え、何かおかしいこと言いましたか?

皆さんが「いやいやその感想はおかしい」と言いたい気持ちも分りますが、皆さん冷静になって考えてみてください。
だって、この世に差別があるからこそ『ズートピア』という素晴らしい作品が生まれたんじゃないですか

ディズニーは差別が存在するおかげで儲かってる

まず今更説明するまでもありませんが、『ズートピア』という作品は「あらゆる動物が一緒に暮らすズートピアという架空の街で巻き起こる、肉食動物と草食動物の間にへだたる偏見や差別を題材とした非常に教育的な映画です。
この作品の中で描かれる動物同士の先入観は、現実社会において見られる差別や偏見をデフォルメしたものと見られる箇所が多く、普段我々が無自覚に抱いている偏見や差別に改めて気づかされ、そこにこの作品の良さがあります。

ですがもし、この世界に差別というものが存在せず、人類は誰もがクローンで複製されたように身体的差異のない生物だったなら、この作品の良さは一切理解できなかったでしょう。
「自分と違う形状の生物と一緒に生活するなんて気持ち悪い」とすら思ってしまうかもしれません。
あるいはもし『ズートピア』に1種類の動物しか出てこなかったら、やっぱりつまらなかったことでしょう。

そもそもディズニーが差別を題材にしている作品は別に『ズートピア』だけではありません。

王子様と平民の少女が出会って結ばれて、少女はプリンセスになる……という類型の物語も、その前提には全て差別的な世界が存在しています。
そもそも王子様という存在が、絶対王政という血縁主義的な世襲制度を肯定する階級社会政治を前提としているからです。
生まれによって身分を決定され、王族という身分に生まれたものが統治者になるという王政制度は、人間みな平等という平等主義民主主義的現代社会においては悪しき風習でしかありません。
もしアメリカ大統領が「今日から王政を復活させて俺が王様になる」などと言い出したら国際社会から総スカンを食らうことでしょう。

それを知ってか知らずか、ディズニーは徹底して王族に生まれた身分の高い王子様と、平民に生まれた身分の低いヒロインが階級社会の垣根を越えて結ばれる童話ばかりをアニメ映画化しています。
だって平民と平民の恋なんて面白くないですし、王族と王族の結婚も大して面白いものではありません。
『リトル・マーメイド』はいちおう王族と王族の恋ですが、そもそも人魚と人間という人種差別を前提にしているのでやっぱり差別的ですね。

ディズニーは差別があるからこそ素晴らしい作品を作れるし、差別があるからこそ儲かっているのです。
もしこの世から差別という概念が消失すればディズニーは作品を作れなくなりますし、そもそもあらゆる創作的文化が衰退するでしょう。

実を言うと僕は「ディズニーは差別を題材にしているからダメだ!」と言いたいのではありません。
ガンダムだってアースノイドスペースノイドの民族間対立が根底にありますし、ジャンプ作品はだいたい親が凄いから子供も凄い的な血統主義的世界観の作品ばかりです。
シムーンだってシムラークルム宮国が国粋主義的思想でテンプスパティウム宮の技術を独占していたことが戦争の発端みたいなものですし(なんでシムーンの話をしたんだ)

で、色々考えているうちに「そもそも全ての文化的作品に差別は必須なのではないか」と気づき、このエントリーを書くことにしました。

俺たちは差別を消費して生きている

まず今回の話をするに当たって、「何をもって差別とするのか?」を定義しておきます。
僕は「人がどう生まれたかによって選択の自由を奪われることが差別である」と考えています。

たとえ日本に生まれたとしても「アメリカ人になりたい!」とその人が思えばアメリカ人として国籍を変えて生きる自由は存在すべきです。
あるいは男に生まれたとしても「女として生きたい!」と思えば女として生きることは肯定されるべきです。

逆に「政治家の子供として生まれた人間しか政治家になれない」とか「皇族に生まれたら皇族として生きなければならない」といった、生まれで選択の自由が奪われる社会は差別的です。
この定義に基づくと、日本という国はどう考えても不平等で差別的な社会ということになってしまいますが、れっきとした事実なのでこの定義はおおむね妥当でしょう。

他にも、例えばその人が生まれた年で「ゆとり世代」「団塊世代」と区分けし、「お前はゆとり世代だから」と決めつけることだって差別です。
「お前はA型だから」「あいつはB型だから」とレッテルをつけることだって充分すぎるほどに差別的です。
他にも「関西生まれだから」とか「片親の家に生まれたから」とか、挙げたらキリがありません。

「日本は単一民族国家だから差別は存在しない」という解釈をする人も多々いますが、むしろ日本は同じ民族同士で人を区別したがる文化だと感じます。
僕たちは差別を日常的に消費し楽しんでいる文化で生きているということを、まずはこの論の前提として理解してください。

そもそもどうして文化が生まれたのか?

次に文化という言葉についてです。
『サピエンス全史』という書籍では、人類の原初の文化作品は以下のようなものと紹介されています。

 だが虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった。
聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。
そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。

ユヴァル・ノア・ハラリ.サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福(Kindleの位置No.528-532).河出書房新社.Kindle版.

 では、ホモ・サピエンスはどうやってこの重大な限界を乗り越え、何万もの住民から成る都市や、何億もの民を支配する帝国を最終的に築いたのだろう?
その秘密はおそらく、虚構の登場にある。厖大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾良く協力できるのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ.サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福(Kindleの位置No.583-586).河出書房新社.Kindle版.

つまり太古の人類は洞窟にライオンの絵を描いて「俺たちはライオンの神様が作ったライオンの一族だ!」みたいな共通幻想を語り合い、同じ虚構の物語を信じることによって、人はめちゃめちゃ人数の多い社会を持続できるようになったというのです。
めちゃめちゃ良い本なので詳しくは自分で買って読んでみてください。
というか実は、この本を読んだことで今回のエントリーを書こうと思い立ったという経緯です。

さすがに「ライオンの神様が作った」というのはアホっぽいですが、「俺たちはサムライの国に生まれたサムライの部族だ!」とか「〇〇という神様が作った人間だ!」とか真面目に考えてる人は未だに結構多いので、この共通幻想という発明が持つ効果は未だ失われていないと思います。

そしてこの共通幻想は「同じ幻想を信じる人間同士に一体感」を与えたのと同時に、「同じ幻想を共有できない人間は仲間ではない」という排斥の壁をもまた、同時に生み出しました。
宗教という文化は異教徒を差別するために存在し、国家という共通幻想は他国を差別するために存在するわけです。
これは「良いか悪いか」ではなく、そもそも文化が人を内側と外側に区別するために生まれたものであり、それが正常に機能しているというだけです。銃が人を撃ち殺すために作られたのと同じです。

もちろん太古の人類であれば、同じ部族の中で教えられた物語がその人間の全てであり、生まれと物語はイコールです。隣の部族が「俺たちはタカの神様の作ったタカの部族だ!」と言い始めたとき「俺やっぱりライオンじゃなくてタカの作った人間ってことにしたい」と選択するのは難しかったと思います。
先にも述べたように「俺はアメリカ人になりたい」とか「俺は空飛ぶスパゲッティーの神様を信じたい」と後天的に選択できることこそが現代社会の進歩だと思います。

逆に「他国の文化に侵略されないように情報を遮断する」という戦略を取る不自由な国家も存在します。
『ローマは武力でギリシアを征服したが文化的にはギリシアに征服された』という一説があるように、文化というものは元々それぐらい共同体の存続を揺るがすものなのです。
civ5でも文化爆弾を落とすと国境が書き換えられるのでめっちゃ強いです。

平等主義は文化を破壊する

今年の四月、市長の救命のために土俵に上がった女性に対し行司が女人禁制を理由に土俵から下りるよう促したことで批判された事件がありました。
「女人禁制なんて時代錯誤な!」と憤る気持ちもわかりますが、相撲以外にも女人禁制が建前となっている土地や風習は世界にたくさん残っています。
もし「男女差別は国際的じゃない」と言って無理矢理その文化を改変するよう迫れば、それは伝統的な文化の破壊になってしまうのではないでしょうか。

www.asahi.com

他にも名古屋では名古屋城再建にあたり、エレベーターを設けないことが身体障害者に対する差別だと批判を受けています。
こんなの当たり前の話で、城というのは中世時代の文化風土を色濃く残した建造物であり、当時の文化的背景も色濃く残しています。
当時の文化を忠実に再現しようとすれば、「自分の足で歩けない人間は天守閣に上がれなくて当然だ!」という思想だってそのまま残ってしまいます。

他にも例えば、先日ある洋画を映画館で見てきたんですが、「この時代背景で舞台設定は欧州なのに、なんで黒色人種が登場するんだ?」と疑問に感じる場面に遭遇しました。
現代のポリコレ的な考え方を踏まえての措置なんでしょうが、かえってなんだか嘘くささが目立ってしまい、非常に現実に引き戻される気持ちがありました。

先ほども書いたように文化とは人を区別するために作られたもので、何らかの思想価値観人種身体的特徴などを優位に描き、他方を劣ったものとして描くことで成り立っています。
歴史的な文化とはすなわち人類社会が採用してきた偏見のリストであり、それを後生に残そうとすれば当然差別的な思想もそこには反映されています。

国際的祭典であるオリンピックだってもともとは、国家と軍事と身体が密接だった時代、「マッチョで身体健全な人間こそ素晴らしい兵士! 貧弱な人間は兵士になれない非国民!!」みたいな価値観の時代に生まれたものです。
それを今の時代まで残しておいて「あの国の人間は体格がいいから不公平だ」とか「設備の揃ってる豊かな国が強くなってしまう」とか言ってるのは甚だ疑問です。
マッチョでない人間を差別するために生まれた文化なんだから、より優れたマッチョを生み出せる国が素晴らしいってことで何の問題もないんです。

白人モノのエロ動画に「平等じゃないから」と言って黄色人種を出したり、「同性愛者も映すべきだ」と言ってホモセックスも同梱したりする必要があるでしょうか。

今これから作るものを現代の価値観に合わせるのは必要ですが、過去のものを改変して差別の歴史を無かったことにするのは文化的ではありません。
それどころか、文化に宿る精神を否定したところで「いったい何のためにその文化を残すのか」というそもそもの疑問が生じてしまうだけです。

均一で平等で万人にとって公平な文化というのは、もはや文化でも何でもないと自分には感じられます。

www.sankei.com

平等主義的な作品は不寛容な人間を差別しているだけ

文化作品は差別を普及させるためのツールであり、過度な差別の否定は文化破壊にしかならない、とこれまで述べてきました。
人は差別を生来的に求めている生物であり、差別的な要素に刺激を受けなければ作品を面白いと感じにくいのです。

そこで、「じゃあ『ズートピア』のような差別を批判する作品は、何と何を区別しているんだ」という疑問が生じると思います。

これは言ってしまえば簡単で、「何でもかんでも受け入れる平等な人間こそ素晴らしい!」という価値観を優に描き、「他人を排斥する不寛容な人間はクソだ!」という劣に描いた作品だということです。
この映画では”とある不寛容主義者”が全ての事件の黒幕であり、その人物ーーもとい動物が、勧善懲悪的に裁かれることでハッピーエンドとなっています。

これだけ自由で理想的な社会として描かれているズートピアですら、不寛容な価値観を持つことは罪であり罰せられるべきものだとして描かれています。
「俺は平等主義者だから不平等な人間を差別する!」なんて冗句がありますが、実はこの作品はそうしたダブルスタンダードを信じ込ませかねない危うさがあります。

確かに寛容であればあるほど共同体に取り込める人数は大きくなり、社会は大きくなり、国家は人口を増やし、多様な価値観が生まれます。
しかしその一方で文化は形骸化し、共通幻想は薄まり、文化が本来持つ「多くの人をまとめる」という役割は機能不全を起こします。
人は人が思い描いているほど寛容な価値観を持てはしないですし、本質的には「何か理由をつけて区別したい」という心理の方が強く働くのです。

僕自身、実家の近くは外国人が大勢移住してきている地域に住んでいたので「あの地区の外国人は体でかいし声でかいし粗暴な人多いから怖い」という印象をずっと持っていました。
そうした不寛容な考えを持つ人間を、「お前は平等主義じゃないから悪だ!」と糾弾し、排斥することは簡単です。
そうして不寛容な人間を排斥していった結果、少数の寛容主義者だけが取り残された小さな村ができあがっている可能性もあります。
もしかしたら寛容を声高に掲げる人間ほど、同じ民族思想の中で生活していて、不寛容な人間の気持ちを理解していないのかも知れません。
そんな状況で「他国の人間を国から追い出せ!」と主張する不寛容主義者が多数決で勝ってしまうのも、そう考えると自然な流れのように思えてしまいます。

「この作品は自由で平等な思想で作られた政治的に正しい作品だ!」という体裁を取ったところで、何かしらの思想は生じてしまうものです。
思想の存在しない作品なんて面白くも何ともないですし、何にも偏らず誰も悪人にしない作品というのは中々作るのが難しいモノです。

それよりはいっそ、「文化作品とは差別的なものだ。だからどんな思想があるかを踏まえるとともに、受け入れられない作品の存在を認めねばならない」と考える方が、よほど文化の未来にとって建設的だと感じます。

そしてもし「政治的に正しい作品を書かなくてはいけない」と勝手に思い込んでる創作者の人が居たら、「差別を出さなきゃ面白い作品なんて書けないんだ!」と開き直ってもらえたらと思います。