Funny-Creative BLOG

電子書籍作家の幾谷正が個人出版の最前線で戦う話

小説を100万文字書くよりガソリンをまいて燃やす方が簡単だったのにどうして僕はまだ小説を書いているんだろう

ja.wikipedia.org

「創作をやったことがない人は知らないかも知れないけど、小説を100万文字書くよりガソリンをまいて燃やす方が簡単なんですよ」

先日の京アニの放火事件を受けて僕はこのようなツイートをTwitterに投稿したところ、色んな人に不謹慎だと怒られたりテロ擁護だと叩かれたりしてしまいました。

このツイートが原因かは分かりませんが、その数日後、Twitterのアカウントが急に凍結されてしまい、僕は本気で「TwitterJAPANにガソリン持って乗り込んでやりたい!」と怒り狂ってしまいました。
皆さんもご存知のとおりTwitterの凍結基準は年々厳しくなる一方で、一度でも凍結を受けたことのある人間は「反省の余地無し」と見なされ以降のアカウントの作り直しが認められません。
一度丸の内にあるTwitterJAPANの本社で受付から電話越しに「どうして作り直しが認められないのか」と抗議に言ったことがありますが、「お答えできません」の一点張りでした。

とはいえ、僕は同人サークルとして作品を販売している都合上、どうしても作品の宣伝や新規ファン獲得のためにTwitterを利用する必要があります。
自作した作品の公式サイトにGoogleAnalyticsを設置していますが、集客はほとんどTwitter頼りですし、Twitterから撤退するとアクセス数に天と地ほどの差ができてしまいます。
それにTwitterでつぶやくことで興味を持って新規の読者になってくれる方も数多く、売り上げは順調に伸びている状況です。
どれだけ「Twitterは悪口ばかりで悪影響だ」とか「規制がキツくてつまらなくなった」といったところで、世間のオタクたちがTwitterからしか情報を集めない連中ばかりになってしまっているのは紛れもない事実でしょう。
自分が作家として再起するためには、不本意ではあってもその支配的な状況に迎合する必要があるわけです。

幸い抜け道はあるもので、色々と手を尽くせばアカウントの作り直しはできるし、作品の宣伝をするチャンスは永久に失われたわけではありません。
僕はまた性懲りもなくアカウントを作り直しますし、多少怒りや不満を覚えたりはしますが、おそらく悪意を持ってTwitterの本社に突撃することはないでしょう。

ただ、「一度でも失敗した人間に二度と再起のチャンスは与えない」という現実を突きつけられるたび、どうしても「燃やしてやる!」と思わずには居られなくなります。
それは今回の凍結の件に限らず、日本で暮らしているとそういう感情に駆られる機会は本当に多いですし、自分が作家として活動する中で何度もこういう思いを抱くことがありました。
幸い実行はしないで済んでいますが、いつ自分が青葉真司容疑者のような行動に出てもおかしくなかった時期があったと本気で思っています。

今回の事件は痛ましいものですし、犯人を許すべきではないと思いますが、同時に「こういう事件を二度と起こさないためにはどうしたらいいか」と考える必要もあると思いました。
その糸口を考える上で僕は、自分が一度そういう気持ちに駆られたことのある人間として、なぜ自分は踏みとどまれているのかという自分の内面について真剣に考えていました。

最初に言った「ガソリンをまいて燃やす方が簡単だ」という言葉は、その過程で出てきた言葉だったりします。

別に僕の言ったとおりにしたところで事件の再発が防げるわけではないですし、むしろ今後もこういった事件は無くならないだろうとすら思っています。
ただ自分の内面を観察する中で、自分がどうして創作を続けているのか改めて気づくところがあったので、この機に言語化しておきたいと思います。

〝無敵の人〟になりかけた作家


「僕も燃やそうと思ったことあるわー」と口で言ったところで、信憑性がないと思うので、そう思うに至った経緯をまずはお話します。
(僕のことを知ってる人は既出の話なので読み飛ばしてもらえれば大丈夫です)

まず改めて自己紹介をしておくと、僕は幾谷正という名前の作家で、過去にライトノベルの新人賞を受賞してデビューしたことがあるが、今は電子書籍作家として個人で活動している。
タイトルに書いた「小説を100万文字書くより~」という表現はウソでも何でもなく、今まで有料の作品として発表した作品の総文字数は100万文字を優に超えている。
電子書籍として販売している作品も一冊につきだいたい20万文字近く書いていて、現在第5巻まで販売しているので、これだけでも100万文字近い文字数を書いて販売している計算になる。

※せっかくなので宣伝しておきます

僕が電子書籍で出している作品は、一度は出版社から商業作品として発売したものだったが、今は版権を引き取って個人の作品として出版を続けています。
一度デビューした僕がどうしてこんな行動に出たのかは、だいたい以前に記事として書いたので、詳しく知りたい方が居たら読んでみて欲しい。

funny-creative.hatenablog.com

簡単に言えば、

  • イラストレーターに宣伝を手伝って欲しいと頼んだところ、イラストレーターの別の仕事先から「他社の宣伝を手伝うな」というクレームが入り宣伝を自粛させられた。
  • 担当編集に「先方に抗議してくれ」ところ「抗議はしないし、この件を口外したらお前は二度と出版社で仕事ができないと思え」と圧力を受ける。
  • 発売後2週間で「売れなかったから打ち切りにする」という宣告を担当編集から受け、自暴自棄になった結果、クレームの件をSNSで告白する。
  • 打ち切られる前提で2巻を書く気もなく、今後も担当に対する信頼を持てないと判断したため、個人で版権を取り戻し電子書籍を媒体として作品を継続する。

というような経緯になっています。

結果として見れば「まあ打ち切られたし仕方ないから電子出版するかー♪」と軽く決めたように思えますが、「もう一度作品を書こう」と思い直すまでは、すさまじく大変な道のりでした。

僕がこのクレームの件をSNSで公開したこと結果、いわゆる炎上に近い騒動となってしまい、僕は数多くのネットの匿名の人間から「お前はなんて自分勝手なクズなんだ」と批判され続けました。
同情的な言葉を書けてくれる作家の知り合いは数多くいましたが、出版社の方針に表だって異を唱え擁護してくれる人は居るはずもありません。

そして僕を批判する人間は、一度も創作をしたことも、僕の作品を読んだことがあるわけでもない人間ばかり。
中には、二次創作で名を上げて人気を稼いでる同人作家が「同じ作家としてこいつは許せない」と書き込んでいるのも数多く見えました。
「同人作家の○○さんが叩いているからこの作家は悪い作家だ!」と決めつけで否定しに掛かってくる人間も数知れず居ました。

どうして10年近くも商業作家になるために努力して、何十作も書いて受賞して、一次創作を続けてきた自分が、無関係の他人に「作家に相応しくない」と断じられなければいけないのでしょうか。

僕が宣伝を頼んだのは、そもそも「作品を長く続けて完結まで読者に読んでほしいから、そのために打ち切りはされたくない。だから打ち切られないために編集にもイラストレーターにも宣伝を手伝って欲しい」という想いからでした。
それがどうして手ひどい拒絶や裏切りを受け、「他人を利用しようとした」と貶められ、何の努力もしていない連中に自分の努力を否定されなければいけないのか。未だに何一つ納得することができていません。

あれからどうやってここまで自分が持ち直せたのか、今ではよく思い出せません。

10年努力して積み上げた実績を全て失ってしまったこと、2年かけて再起の念を込めて書いた作品の未来が失われてしまったこと。
この件を境に僕は半年ほど心療内科にかかって投薬治療を受けることになり、新卒で入った会社も心身の喪失が激しく退職を余儀なくされました。

子供の頃から憧れだった作家として活躍するという夢も、やっとのことで就職できた本業も、どちらも同時に失ってしまった僕は、いわゆる〝無敵の人〟に近い状態でした。
「自分をこんな目にあう原因となった連中に復讐してやる」と本気で思ったのはこの時期でした。

復讐心が強かったから努力できただけだった

幸い、自分がこうした状況に追い込まれる原因を作った犯人たちの顔も名前も勤め先も、姿を現しそうな場所なども全て分かっていましたし、やろうと思えばいつでも行動を起こせたと思います。
何度も頭の中で具体的なシミュレーションを行いましたし、一度は行ったことのある場所ばかりだったので、警備の突破方法や逃走ルートもかなり綿密に考えることができました。

だから先日の京アニ放火事件の報道を最初に目にしたとき思ったのは、「自分がやろうとしてできなかったことをやった人が居るんだな」という、尊敬にも近い感情でした。
もちろん動機も標的も生い立ちも背景も何もかもが違いますし、自分が勝手に共感を抱いてしまっているのは、考えすぎだとは思います。

ただ、人をああいった行動に走らせる動機は本当に身近な所にありますし、僕はその動機にかなり近いところまで触れたことがある人間でした。

biz-journal.jp

報道によると青葉真司容疑者は「自分の小説をパクられた」という主張をしているようで、これは精神を煩った容疑者の妄想だと言われています。
ただ作品を誰かに奪われる痛みというものは僕自身よく分かる話で、この人の場合は妄想から行動を起こしましたが、実際に書いた作品の未来を本当に奪われた僕もとてつもなく怒りを覚えました。

匿名の悪意に苦しめられる度に、今も、「あのとき我慢しないで行動して殺しておけば良かった」と何度も後悔しそうになります。
小説を100万文字書くよりガソリンをまいて燃やす方が簡単なのにどうして僕はまだ小説を書いているのか、本当によく分かりません。

ただ電子書籍という存在を五年前に初めて知って、KindleDirectPublishingのような作家が個人で作品を出版できる仕組みの存在を知ったとき、僕は「まだやり直せる」と希望を持ちました。

そしてそれ以上に僕を突き動かしたのは、電子書籍で自分一人の力で本を出し続ければ、編集や出版社が不要な存在だと証明できる!」という復讐心でした。
自分の憎しみを自分で無理やり騙すことで、なんとか作品を書き続け、行動のエネルギーに転化しているに過ぎない状況です。
「世界に否定された仕返しに新たな世界を作ろう!」だなんて、あまりに考えが壮大すぎますし、実現できるとはとても思っていません。

こんな歪んだ気持ちで作家を名乗り続けるぐらいなら、彼らのように社会への復讐を果たした方が、まだ健全だったのではないかと思っています。
僕は人一倍妄想が激しく理性を失っているから、彼らのように安易な復讐ではなく、より困難な道を選択しようと思っただけに過ぎません。

そういった意味で、むしろ世界を作るより簡単な、世界を燃やす行動は、今後も継続して発生し続けるものと思います。

生ける屍が生ける屍を作るゾンビ社会

news.yahoo.co.jp

黒バス脅迫事件と呼ばれた事件のことは、まだ記憶に新しいと思います。
今回の放火事件を受けて真っ先に思い出したのは、この渡邊被告の残した言葉でした。
〝無敵の人〟というフレーズも、この事件を機に広まって概念として定着した感があります。

彼は自分のことを、下記のように表現しています。

10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた

僕がこの内容を見て一つ不思議に思ったことがあります。
それは、10代20代を作家になるための努力をして過ごし、今も努力を続けているはずの自分が、なぜ彼らにここまで共感を抱いてしまうのかが疑問でした。
おそらく、自分の行っている〝作家になるための努力〟や〝再起するための努力〟が、本心では無駄なものではないかと感じているからだと思います。

渡邊氏は「小学校時代に受けたいじめによって屈折した」と自分を省みていましたが、自分もネットで受けた特命の悪意に晒され続け、大きく自尊心を傷つけられた結果、彼らのような人たちの考えに共感するようになってしまった自覚があります。
「たかがネットの悪評で」と笑われるかもしれませんが、初めて会う人間や僕の経歴を知った人間は、ネットで検索し彼らが行った匿名の書き込みを真に受け、「こいつはろくでもない作家だ」と決めつけられるのです。今後も一生です。まさに「こんなくそったれな人生やってられるか」です。

自分が再起の念に燃えて現在も創作に対し努力を続ける一方、未だに「お前は再起を許されていない人間だ」と社会に拒絶されていることを痛感することがよくあります。
今でも僕に対していわれのない批判や罵倒をしてくる匿名のアカウントは数多く、「こいつは二度と作家を名乗ることなど許されない」と毎日のようにネット上で叩かれています。

小説を100万文字書くよりガソリンをまいて燃やす方が簡単ですし、それ以上に、努力している人間にケチをつけて悪し様に貶して足を引っ張って引きずり下ろし、再起の芽を奪う方がずっともっと簡単です。

もちろん命を奪われるのに比べれば、僕なんてまだ軽いものでしょうが、それでも見ず知らずの他人に恨まれ、創作を否定されるというのは、僕にとっては日常的に起きていることですし、また同じ事をされている作家も多く居ます。

皆さんにとっては過去の出来事でしょうが、僕は未だに当時の悪評を持ち出され、多くの悪意や嫌がらせに苦しめられ、それらの悪評のせいで未来を閉ざされています。
皆さんが僕から未来を奪った結果、僕は今、その奪われた未来を生きているのです。

ネットには人の足を引っ張って〝埒外の民〟に引き込もうとする、潜在的な青葉容疑者のような人間が数多くひしめいています。
そして彼らの言葉を真に受け、拒絶する人間が増える度、我々は新たな〝埒外の民〟に引きずり込まれていきます。
まさにゾンビ映画みたいな惨状で、渡邊氏が自分を「生ける屍」と形容したのはかなり的を射ていたと痛感します。

どうせこの記事にも、いつものようにゾンビがわらわらと群がって、「こいつは犯罪者を擁護する最低の作家だ!」とかお決まりの文句で他人の足を引っ張るんでしょうね。
そしてゾンビに感化された別の脳死したゾンビが大した考えもなくリツイートして、脳の死んだ編集が「こいつは最低の作家だ!」と真に受けて死者の王国が広がっていくわけですね。
やっぱドラカリスしたい。

僕は偶然人よりちょっとだけゾンビウィルスに対する抵抗力が強く、無産の嫉妬に引きずられないでなんとか生き残っていますが、一方で「かなりゾンビウィルスに侵されてるなー」と感じている部分はあります。
作品を一冊書いて、リリースを報告して、買ってくれる読者がいて、感想をもらう度に「あ、俺まだ生きてるじゃん」という抵抗力を一時的に取り戻しているような状態です。
そしてもし完結まで書ききったとき、はれて作家として復活できるのか、結局生ける屍に落ちていくだけなのか。それは僕にも今のところわかりません。

炎上マーケティングの次は犯罪マーケティング

それと今回の事件のことを考えていて、一つ不気味なことに気づいてしまいました。
黒バス事件の渡邊被告は事件後に本を出していて、この本はかなり売れていらしいのです。

おそらく、何の犯罪も犯していない僕たちの本よりも注目され売れています。
ヤバイですね。

たとえば僕はTwitterでよく過激なことを炎上していますが、そのたびに見ず知らずの人から「どうしてそんな炎上するような宣伝の仕方しかしないんだ」と怒られます。
そう言われる度に僕は「じゃあ僕が普通の宣伝をしたときあなたは僕の宣伝に気づいてくれたんですか?」と問い返しています。

いちおう僕の中のポリシーとして、二次創作やコラージュといった著作権侵害に対して批判するようにしているのですが、不思議なことに「法を守れ」と言えば言うほど批判されます。

はだしのゲンコラ、幾谷正がNPO法人に通報するも逆に垢凍結されてしまう・・・ - NAVER まとめ

こういう傾向が続いた結果、今度は「どうしても自分の作品を多くの人に注目してほしいからそれが目当てで犯罪を起こしました!」という人が逸現れても不思議ではないと思います。

たとえ著作権侵害でも二次創作をした方が売れるので、作家になるうまみは無くなっていますし、年々漫画家志望者は減っています。
「犯罪を犯してでも作品を読んで欲しい!」と思ってる人はそれだけたくさん居るという証左です。決して起きるわけがないと笑い飛ばせるものではありません。

ただ一つだけ留意してほしいのは、炎上とは「炎上するぞ!」と思えば起きるものではなく、「面白そうだ!」と注目を注いで拡散してくれる無数のネットユーザーたちが協力して起こしているものです。

噂によると今回の放火事件を起こした青葉容疑者も実は小説を書いていたという噂がありますが、もしマスコミがその小説を発見して、拡散され注目を集めるようになったらどうでしょう。
「犯罪を犯せば作品を読んでもらえる」という認識が広まってしまっても決しておかしくはありません。

今までタブー視されていた炎上が単なるマーケティング手法と見なされるようになってしまった昨今、犯罪という行為すら、たんなるマーケティングの一手段になる日もそう遠くはないと思います。

〝善良な人間〟と〝追放された人間〟の戦争

自分を〝善良で普通の人間だ〟と躊躇なく信じ込んでいる人間ほど、彼らは正義の心から、平和を乱し悪を犯した人間を糾弾しようとします。

たとえば日本の再犯率は非常に高いと言われており、しかも今回の青葉容疑者も過去にコンビニ強盗を犯した前科があると報じられています。

www.news-postseven.com


僕は自分の経験から、これは非常に共感できる話だなと思っています。
一度失敗をした人間や罪を犯した人間を、〝善良で普通の人間〟は決して許しはしません。
どれだけ自分の行いを悔いて、反省し、正当な努力を続けても、一度罪を犯した人間というだけで、その再起にかける望みは多数の暴力によって簡単に踏みにじられます。

結果的に罪を犯した人間は、「どうせ二度と許されることがないのなら、二回三回と同じ事を繰り返し、努力なんて無駄なことはやめた方が得だ」と考えてしまうのでしょう。

僕もつい先日、業界で仕事をしている知り合いに、「このまま頑張って再起することはできるだろうか」と相談してみたこともありますが、「お前はネットでこう言われている人間だから作家として再起するのは無理だろう」というのが彼の見解でした。
読者のために必死になって行動した結果、創作をしたこともなければ作家になろうと努力してきたわけでもない匿名の人たちから叩かれ、出版社や業界の人間たちは匿名の彼らの声を信頼して、創作を志して努力してきた自分は拒絶されました。

もちろん今回のような重大な犯罪は許されるべきではありませんが、それでも、失敗した人間が再起しようとすることは許されていいと思います。

道を踏み外した人間や罪を犯した人間を社会から追放し、再起の芽を奪えば奪うほど、〝善良な人間の社会〟と〝追放された人間の社会〟は分離していきます。
追放された我々にとって、二度と戻ることを許されない〝善良な人間の社会〟は、守る価値もなければお返しを期待して貢献することもありません。

むしろ彼らの社会を破壊することで恨みを晴らしたり、築き上げたものを奪い取ったり、あるいは自分と同じように再起できない人間を増やすために引きずり落とそうとするでしょう。

僕は「商業出版から追い出されたので、電子出版という新たな市場を開拓しようと思い立った」ことで再起できたと先述しました。
同じように、もっと大きなレベルで、社会に不平を持っている人間が「日本社会から追い出されたので新たな社会を作る!」とかになったら、それはもう単なる内戦ですよね。太平天国の乱です。

そんな崇高な志を持つ人間が現れることはそうそうないと思いますが、このまま埒外の民が増え続ければ、確率は高まっていくのも事実です。

復讐を手放すには世界を手放すしかない

僕が〝無敵の人〟になりきれなかったもう一つの理由は、結局のところ、「僕がそれなりに器用で優秀だったから」に過ぎないと思っています。
自慢に聞こえるかも知れませんが本当の話です。

たとえば先ほど書いたように、僕は自作の小説を発表するために電子書籍を学んだり、サイトの作り方を独学で学び、その結果WEBエンジニアっぽい仕事もしています。
また、僕の「コンスタントに20万文字の小説を書ける」とか「メタやパロディに頼らず丁寧にストーリーを作れる」みたいな能力は、むしろラノベやゲームとかより、他のジャンルに目を向ければ結構需要があったみたいです。
僕は受賞したときの講評で、平坂読先生から

また、他の候補作の幾つかに見られた「漫画やアニメやラノベやゲームじゃあるまいし」とか「厨二病かよ!」みたいな表現がなく、茶化すことなく誠実に物語を書ききっている印象がありました。

というお褒めの言葉をいただいています。

ただ、逆に言うと「パロやメタネタがない」だけで褒められるなんてオタク向けのラノベやゲームだけの話で、むしろそういうネタを入れた方がオタクに受けますしそっちの方が売れます。

逆に僕みたいな作風の人間はオタク向けコンテンツにとってあまり居場所がないので、別の方向性を模索した方がより建設的じゃないかと思うようになりました。
実際現在も、作家名とは別名義でいくつかそういった仕事をする機会に恵まれており、作家をするのに比べて安定した稼ぎになりそうな手応えも感じられてきています。

ただ、今やっている別の仕事の方で、自分がどんな名義で何を書いたかは決して言わないようにしています。
僕の作家としての経歴は言わば汚れた経歴になってしまいましたし、ペンネームを知られたところで「こいつは問題のある人間だ」というイメージを与えるだけです。
実績を得るために努力して得た受賞や出版の経歴が、むしろ新しい未来を手に入れるうえで邪魔になるだなんて、なんとも皮肉な話ですね。

ただ、電子書籍で出版活動を続けてきたことで、「自分はまだ充分作劇の能力で戦える」という自信を取り戻せたこと自体は事実です。

そういった意味で努力し続けてきた意味は、自分の中では見つけられたと思いますし、無駄な努力ではなかったと自分を肯定できています。
ただ今のところこの世界は僕が作家になることを望んでいないようですし、僕自身も望まれないことをこれ以上する必要はないのかなと感じてきています。
もちろん今出し続けている作品は完結まで書ききりたいと思っていますし、読者の期待にも応え続けたいと思っています。
しかし、そこまで努力しても作家に戻ることができないというなら、僕は今度こそ本気で作家になることを諦められるかなと思います。

たとえ辞めるにしても、「理不尽な圧力に屈して終わった」では、やはり納得がいきません。
自分の実力と熱意でやれるだけやって抵抗して、それでもダメだったなら、実力不足だったと認めて辞めることが出来ます。
少なくとも、無産のザコどもに邪魔されて終わっただけでは、結局納得できずにまた戻ってくるだけなので、僕に死んで欲しかったら僕が死ぬ邪魔だけはしないで欲しいです。

僕はアニメやラノベやマンガが大好きなオタクで、それらに対して恩返しができるような作家になることを目標にしてきました。
ただ、この社会は一度失敗した人間を二度と受け入れはしないのだと受け入れますし、僕は作家以外なら何にでもなれます。

京アニのクリエイターたちは死ぬべきではない素晴らしいクリエイターたちで、僕たちは居なくなっても問題ない素晴らしくないクリエイターです。

「再犯を防ぐためには、一度罪を犯した人間は死刑にすればいい」なんて極論も少なからず聞こえてきますが、今のような再起を許さない閉じた社会が続くのであれば、近世以前の社会に逆行していくのも仕方の無いことだと思います。
素晴らしくないクリエイターはどんどん居なくなった方がいいですし、その結果作家志望者が減ったなら、出版社も書店も減らしていけば良いんです。

復讐を諦め、作家になることを諦め、過去の経歴を捨てることを余儀なくされている今の状況は、正直緩慢な自殺にも近い心境です。
「作家にはなれなかったけど、新しい道が見つかって良かったね」と言われるのは嬉しい反面、内心「罪を犯したから自殺して生まれ変わってね」と言われているような気がしてなりません。

「努力することも復讐することも認められないなら、いっそ死刑にしてくれ」という無敵の人たちの叫びは、これもまた僕にとって非常に共感できるものだと思いました。

創造する者の道について

最後に、僕が愛読する『ツァラトゥストラ』の一説「創造する者の道について」から、この文章を引用したいと思います。
僕は哲学はそんなに好きじゃないですが、ニーチェの言葉だけは好きです。

 君は、自分の炎で自分を焼いてしまいたいと思う必要がある。
 まず灰になってしまわなければ、新しくなりたいとは思わないだろう!
 孤独な君は、創造する者の道を歩いている。君の7人の悪魔から神を創造するつもりなのだ!
 孤独な君は、愛する者の道を歩いている。君は、自分自身を愛している。だから君自身を軽蔑している。それは、愛する者だけが知っている軽蔑の仕方だ。
 愛する者は、軽蔑しているから、創造しようとするのだ!
 自分の愛しているものを軽蔑しなくてすむような人間に、愛の何がわかるのだろう!
 兄弟よ、君の愛といっしょに、そして君の創造といっしょに、孤独になるのだ。後になってようやく公正さが、足を引きずりながら君のあとを追うだろう。
 兄弟よ、俺の涙といっしょに、孤独になるのだ。俺が愛する人間は、自分自身を超えて創造しようとし、そうすることによって破滅する人間だ。──

ニーチェ. ツァラトゥストラ(上) (光文社古典新訳文庫)