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電子書籍作家の幾谷正が個人出版の最前線で戦う話

巨大ロボットや変身ヒーロー作品における個人と役割の対立とブラック公僕ドモン・カッシュ

※この記事には『アベンジャーズ/エンドゲーム』『トイ・ストーリー4』『機動武闘伝Gガンダム』『宇宙の騎士テッカマンブレード』のネタバレが含まれています。

今年の5月、あの話題の『アベンジャーズ/エンドゲーム』を見に行きました。
あれだけ「アベンジャーズが終わる」とCMで言われていたのに、「いやいやまさか本当に終わるわけないじゃん」と思って見に行ったんですが、見に行ったら「本当に終わった!?」って結構度肝を抜かれました。
それぐらいあの完膚なき終わりっぷりには衝撃を受けましたし、大好きなキャプテン・アメリカ「自分の人生を生きてみようと思った」というセリフは、寂しくも味わい深いセリフでした。

また先月はネットで色々と話題になっていた『トイ・ストーリー4』も見に行きました。
ネットの前評判でかなり評価が分かれていたとおり、僕も見に行って「面白いけどちょっと違うな・・・」というテンションで劇場を出ました。
仮にこれが「トイ・ストーリーが終わる」ってCMで言われて見に行ったなら良かったんですが、好きなアイドルのコンサートを見に行ったらいきなり引退発表をされたぐらいの戸惑いがありました。

さて、作品の評価や感想はさておき、僕がふと気になったのはこの『アベンジャーズ/エンドゲーム』も『トイ・ストーリー4』も、一つの共通のテーマに基づいて描かれて居ることに気がつきました。
それはキャプテン・アメリカというヒーローや、ウッディというオモチャが、永きにわたって担ってきた自分の役割を引退する物語だったという点でした。

役割に命を賭けることを美徳としてきたヒーロー像

彼らヒーローは作中の時間軸において長い時間と人生をかけて自分の役割を果たし、我々ファンはシリーズを長い時間追いかける中でその姿を追いかけてきたわけです。
ただ多くの作品において彼らの最後は、「役割を果たして個人の人生を捧げること」を美徳として描いて終わることが多いと思われます。

その点で『アベンジャーズ/エンドゲーム』が非常に“新しい”なと感じたのは、ヒーローの最期の描き方の対比です。
アイアンマンというヒーローの役割に殉じたトニー・スタークの死を痛ましいものとして描く一方で、キャプテン・アメリカというヒーローを降りて自分の人生を生きたスティーブ・ロジャースの引退を非常に綺麗なものとして見せていました。

これまで「兵士なら戦って死ぬべき」「戦士は戦場で死ぬのが役割だ」というテーマの作品を無意識に賛美し、それが当たり前の価値観であるかのように思い込んでいた部分があると思います。
むしろ「ヒーローが自分の役割を捨てて自分の人生を生きる」という物語は役割からの逃避や責任の放棄として否定的に描かれることが多かったテーマだったと思います。
その点で「死以外の形でヒーローがその役割から降りて個人に戻る引退の物語」を描いた『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、キャプテン・アメリカというヒーローのファンとしては非常に納得する部分が多い作品でした。

そして同時に、キャプテン・アメリカというヒーローはそもそも“第二次世界大戦で戦った肉体改造を受けた軍人”という設定であることは注目されるべきだと思います。
彼は「実在の軍人のメタファー」という要素を内在したキャラクターであり、彼の人生が「退役して自分の人生を生きた兵士」として描かれた事実は、それだけでも現実に対して価値ある結末だったと思います。

だって実際に国のために戦っている軍人が、フィクションの中だったとしても「兵士は戦って死ぬべき!」「生きて帰ってきた奴は逃げ帰ってきただけだ!」なんてテーマの作品を見せられるの、いくらフィクションでも嫌なものが有ると思います。
このあたり、軍人という存在が日本よりも身近なアメリカの文化や社会において、「引退した兵士がどう生きるべきか」というテーマは時代性と照らしていい加減にできないテーマだったんじゃないかなと思います。

そもそもヒーローとは役割と個人の対立である

そしてこの考えに至ったときふと思ったのは、「そもそもあらゆる作品のヒーローというのは役割と個人の対立を描くためのテーマじゃないのか」という気づきがありました。

変身ヒーローの場合は「突然なんらかの偶然で力に目覚める」というタイプの作品が多いので意識しづらいですが、『スパイダーマン』に出てくる名フレーズ「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉は、スパイダーマンに限らずあらゆるヒーロー作品に対して当てはめられる共通のテーマかなと思います。

それに対して巨大ロボットの場合、組み立てるにも運用するにも修理するにも多くの人間の力を借りる必要があり、それは所属する組織や人間関係などと切っては切り離せません。
多くの人間が関わって生み出されたロボットのパイロットという役割を、誰が担うのか、どうその力を扱うのか、というストーリーは「与えられた役割をどう全うするか」というテーマに他なりません。

早い話、「巨大ロボットのパイロット」とは「社会から与えられた仕事」であり、主人公の役割とは「社会から与えられた仕事を全うすること」なのです。

これをメタ的に作品の設定に取り入れたのが『地球防衛企業ダイ・ガード』や、武装の使用に政府の認証をいちいち必要とする『勇者王ガオガイガー』だったりします。

日本でこれだけ多くの巨大ロボット作品が作成され愛されてきたのは、「与えられた役割を個を殺して果たす」という挺身の精神を美徳とする日本の価値観にマッチしていたからこそではないでしょうか。

ブラック公僕ドモン・カッシュ

「個を捨てて役割を果たす」という日本の主人公像を紹介する例として相応しいキャラクターを考えたとき、例として最も相応しいと思ったのが『機動武闘伝Gガンダム』の主人公ドモン・カッシュでした。
彼は自由気ままに私情で行動する熱血バカの格闘家――と本編を見てない人からは勘違いされがちですが、その実態は紐解いてみると全く真逆です。

  • 国同士の利権を賭けて争う代表戦争制度ガンダム・ファイトのネオジャパン日本代表(戦争の最高責任者とオリンピック代表を一人でやらされてるようなもの)
  • 身内が起こしたアルティメット・ガンダムの暴走事故の責任を取る形で、父親を冷凍刑で国に人質に取られ、指名手配犯となった兄を追う特命捜査を命じられている。
  • 古くから「秩序の守り手」と呼ばれ、歴史上の数多くの戦いや事件を陰から調停したというシャッフル同盟の後継者として任命されている。

といった感じで、番組開始の第1話の時点で既にこれだけ大きな役割を3つもいきなり与えられています
オリンピック代表選手と国際警察とNPO団体をいきなり一人でやらされてるようなものです。ガンダム主人公の中で誰よりも任務に忠実なブラック公務員です。

ただし番組前半のドモン・カッシュという個人は「家族を裏切った兄を追う」という復讐の心に燃えており、個人と役割は一致しており対立を起こしてはいません。

問題は、「アルティメットガンダムを暴走させた犯人と思われていた兄が、実は巻き込まれただけの被害者だった」と判明する番組後半の第44話「シュバルツ散る!ドモン涙の必殺拳」です(改めて見てもスゲ―タイトルだなこれ)

ドモンはデビルガンダムと化したアルティメットガンダムを止めるため、大好きな兄を自分の手で討つことを迫られます。
そこでドモンは「嫌だ・・・僕には出来ない!!」と弱り切った声を上げます。彼はずっと俺口調で話してきたのですが、この回で初めて僕という一人称を使います。
これは声優である関智一さんのアドリブだったとも言われてますが、どちらにせよ、彼がドモン・カッシュという個人の心情を吐露したセリフとして非常に印象深いものになっています。

結局兄であるキョウジ自身から「甘ったれたことを言うな! その手に刻まれたシャッフルの紋章の重さを忘れたか!」「お前もキング・オブ・ハートの紋章を持つ男なら、情に流され、目的を見失ってはならん!」と発破をかけられ、最愛の兄をその手にかけることになってしまいます。

このシーン、素晴らしく熱い名シーンではあるんですが、ちょっと視点を変えると「役割を真っ当するために家族を殺すことを強要される」という中々にヤバいテーマも内包されてしまっています。
「仕事が忙しくて親の葬式にも出られないブラック公務員」なんて目じゃないレベルの公益遵守精神です。

結局ドモンはその後も、キングオブハートの後継者として最愛の師をこれまた討ち、ガンダムファイトで優勝し、与えられた役割の全てを見事に全うしてみせます。
任務に忠実という設定になってるガンダムWヒイロ・ユイよりしっかり役目をこなしてます。ヤバいですね。

ただこのGガンダムという作品が素晴らしいのは、ただそれだけで結末とせず、第46話から最終話にかけて「ドモン・カッシュという個の確立」までもを追っているところです。
その結末は既に作品を見終えている皆さんにとっては周知の事実なので今更語りませんが、まだ見てない人にはぜひその目で確かめて欲しいです。

Gガンダムという作品は一言でまとめると「ドモン・カッシュという個と、キングオブハートという役割の合一する過程」の物語であり、そのシンボルであるハートマークが一貫して使われ続けるのはマジで頭がおかしいぐらいよくできてますね。
言わば仕事も恋愛も手に入れたスーパー公務員です。

正直、全ガンダムシリーズの中でも三本の指に入るぐらい、しっかりとしたシナリオに支えられた視聴後の満足度が高い一作だったなと思います。

役割に殉じてしまったヒーローたち

そしてドモンとは逆に、個を本当に役割に捧げきってしまったヒーローという主人公像も存在します。

たとえば『宇宙の騎士テッカマンブレード』の主人公テッカマンブレードはその典型でしょう(あえてDボゥイと呼ばない)
このアニメはGガンダムの2年ぐらいまえに放送されたアニメですが、こちらも「役割を果たすために愛する人たちを手にかける」という作品のテーマは共通しています。

ただGガンダムとの決定的な違いは、「役割を果たすために個を殺す」物語だったという点です。
彼が最終話で放った「Dボゥイも相羽タカヤも、今ここで死んだ! 俺は……テッカマンブレードだ!!」というセリフはまさにこの作品を一言で表しきっている名台詞なんですが、マジで「役割のために全てを犠牲にしてしまった男」なんですね。
過労死鬱病寸前まで陥ったブラック社員のブレードさんでしたが、なんとか無事に生還できたという意味で『テッカマンブレードⅡ』は僕は良かったと思ってます。いや良かったですよね?

他に「殉じた」というわけではありませんが、「与えられた役割を全うしていたら知らないうちに犠牲にされていた」という物語が『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメの一側面でもあります。
実は初代のエヴァGガンダムと同年代のアニメなんですが、作品としての完成度とか読後感だけで比べるなら僕は圧倒的にGガンダムの方が見るべき名作だと思ってますね。

主人公碇シンジの名台詞と言えば「僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット碇シンジです!」ですが、結局彼が「エヴァンゲリオンパイロット」という役割を果たすことで、事態は取り返しがつかないほど悪化し、彼の個を捨てた献身は他人に都合良く利用され続けていきます。
ドモンが最愛の師匠を手にかけることで自身の役割を全うしたのに対し、碇シンジは友人である渚カヲルを手にかけたことで決定的に破綻し、主人公も作品もその世界もついでに監督の精神まで巻き込んでぶっ壊れてしまいます。
これはある意味「与えられた役割を無思慮に果たす熱血アニメの主人公に対するアンチテーゼ」として当時は斬新だったと思えるんですが、結局「役割の否定とはロボットアニメというジャンルそのものの否定にしかならないのではないか」と僕は思いました。

働き方改革を求められるヒーローたち

アベンジャーズキャプテン・アメリカを引退させたように、社会は「ヒーローの死を尊く描く」価値観から脱却し、個人の救済をテーマに物語を作り始めているのが世間の潮流だと僕は感じています。
これは日本のロボットアニメというジャンルが国際的に広がっていくためにも必要な過程で、いつまでも過労死するパイロットを描くのではダメなのかなと思ってます。
ロボットアニメも働き方改革を求められてる時代です。

アーマードール・アライブ  Ⅰ 〜死せる英雄と虚飾の悪魔〜

アーマードール・アライブ Ⅰ 〜死せる英雄と虚飾の悪魔〜

たとえば僕も同人サークルとして、巨大ロボットモノのライトノベルを書いていますが、この作品の第1巻のモチーフは「自分を犠牲にして戦ってきた主人公が個を取り戻す」という過程を描いてます。
作中で主人公が「ワーカーホリック」と揶揄されるギャグを入れてるんですが、このギャグはテーマに対して意図的に入れたものでした。

もし自分の作品を書いている人が見ていたら、「主人公の個と役割」を一度具体的な形に明文化してみて、それがどう対立しているのか、あるいは合一していくのかを意識してみるとドラマが作りやすいと思います。
逆に「ヒーローとは役割=仕事である」というメタ的な視点を逆手にとって、『敵が出現してしまい娘の誕生日パーティーに間に合わない変身ヒーロー』みたいなモチーフとか考えつくかもしれないですね。

ただどちらにせよ、「役割を全うするために個人の幸せを犠牲にする」という作品がウケにくくなってしまったのは、今のご時世的に仕方ないのかなとも思いました。

終わり。