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電子書籍作家の幾谷正が個人出版の最前線で戦う話

元ラノベ作家だけどシナリオライターの学校に通うことにした#1 『なぜ通うことにしたかという前説』

こんにちは、幾谷正です。

ネット上では「打ち切られるはずだった作品を同人として継続して自力で電子出版し続けている」という経歴の元ラノベ作家ってことになってます。
セカイ系SFロボットラブコメノベル『アーマードール・アライブ』おかげ様で順調に作品は第5巻を発売しまして、第6巻も順調に執筆中です(宣伝)

アーマードール・アライブ ? 〜持たざる者と嫉妬の悪魔〜

アーマードール・アライブ ? 〜持たざる者と嫉妬の悪魔〜

公式サイトはこちら↓
armordoll-alive.funny-creative.com

「作家が自分で製本も販売も宣伝も行えば出版社とか要らんやん」という思想を発端として書き続けてきましたが、正直この試みは完全に成功していて、あとは完結まで書き続けるだけという状態です。
ただそれとは別に、僕という人間個人にとって、この活動一本で食えるわけでもないし、何か先が見えているわけでもない。
今後も同じ活動を続けていくかというと体力的にも気力的にも難しいと思っており、行き詰まりも感じ始めていました。

ところで僕は本業では、東京でWEBエンジニア兼社内SE兼ライターみたいな三足のわらじを履くような仕事をしています。
たまに「せっかく元ラノベ作家って面白い設定があるので何か活かしたいな」とは言っていたのですが、そうそう都合良くそんな話が来るはずも無く・・・と思いきや。

社内のちょっとした事情から「ちょっと漫画を作りたいからシナリオとか書いてみてくれない?」という無茶ぶりが社内で発生しまして、「そういうことならやりますよ」と二つ返事で承諾。
そんな案件が2件、3件と立て続き、WEBエンジニアのくせに3作目の漫画原作シナリオをなぜか作成中という状況になってます。

そもそも僕がラノベ作家を目指した経緯って、実を言えば最初から「ラノベ作家になりたい」と思って書き始めたわけではなく、どちらかというとラノベよりアニメとか映画のような映像作品が好きなオタクでした。
ただいきなり自分のような何の専門性のない素人が「アニメで仕事をしたい!」と言ったところで無理なのはご承知の通りだと思います。
(事実、大学4年次にアニメ制作会社の新卒採用を何件か受けてみましたが全滅しています)

そもそも脚本家とかシナリオライターという仕事について、実際に活躍している人の名前は毎日作品のクレジットで目にしますが、どうやってなるものか点でわかりませんでした。
wikipediaで経歴を見てみても「業界関係者の知り合いだった」とか「舞台脚本の仕事をしていたらスカウトされた」とかの偶発的ななり方ばかりで、確実性のあるものが一つもありません。
そういうわけで、「とりあえず何かしらの形でデビューしておけばチャンスもあるだろう」と考えてラノベ作家を目指して、新人賞を得たというわけです。
「作家として仕事して上手く成功していけば、いつか映像業界で仕事するチャンスがあるかもな」という打算の部分が大きかったのです。

ただデビューから3年経って編集との確執や炎上を機にラノベ作家を表向きには辞め、創作はあくまで副業や趣味としてやろうと決めて本職のエンジニアを続けてきました。
僕が知る限り、ラノベ作家を辞めた人間の取るルートには幾つかの選択肢があって、その一つがまったく異業種で普通の仕事に就くという僕の取ったパターンです。

他にも、同時期にデビューしたラノベ作家の多くがソーシャルゲームのライターになっているのを耳にしました。
自分もそちらの業界から何度か誘いを受けましたが、“射幸心を煽って賭博をさせる”というガチャのシステムが自分の倫理観の中で肯定できず、やはりこちらに行くこともありませんでした。
あるいは「『小説家になろう』で異世界転生を書いて作家として再デビュー」みたいな路線に入るパターンも見かけましたが、あの手の作品の面白さがどうも自分にはよくわかりません。

それよりは、普通の仕事をしながらでも、自分の作品をしっかり完結まで書き続け、汎用的に使える作劇の技術の研鑽をしたいというのが僕の中のポリシーでした。

流行や時流に流されず、自分自身の研鑽のために作品を書き続け、そんな折りにシナリオライターの仕事が降って湧いてきたというわけです。

商業作家を辞めてから5年経ってるとはいえ、僕自身はその5年間、プロとして手を抜かないクオリティを維持しながら電子書籍を5冊も出してきました。
1冊につき20万文字ぐらいとして、合計100万文字を趣味で書き続けてきたわけです。

これが普通のサラリーマンなら「シナリオを書くなんて無理です。プロにお金出して任せましょう」となるところ、僕にとっては朝飯前も同然の仕事でした。
内容としては魔法もSFも美少女も超常現象も出てこない、普通の現実世界を舞台にしたものですが、科学考証や世界観設定をしなくていいぶん、むしろ楽なぐらいの仕事でした。
そして「こういうものが書けるなら、別に実写映画でもドラマでも、シナリオさえ書ければ僕は楽しめる人間なんだな」と結果的に気づくこともできました。

しかも結果的に考えてみれば、「ラノベ作家になればシナリオライターになれるかも」という甘い考えで始めた結果、本当にシナリオライターの仕事ができたわけです。
デビューしてから、編集とケンカしたりカドカワに圧力かけられたりネットで炎上したりと嫌なことばかりでしたが、最近になってようやく自分のやってきたことを肯定的に感じられるようになりました。
ただ、下手に自分をラノベ作家だと思い込んでたせいで、もっと広い可能性があったのに自分で自分を縛っていたんだなと反省することも同時にありました。

社内でシナリオの仕事をしていると言っても、偶発的に発生した2~3件の仕事で、今後も継続的に同じ仕事が続くわけでもありません。
また、「シナリオライターとして仕事をした」とは言っても、正しい脚本の書き方や手順も知らず、独学の知識と技術だけでは結構限界があるなとも感じました。

そういった経緯から、本格的にシナリオライターとしての技術を学んでみようと思い立ち、青山にあるシナリオセンターの存在を知って半年間の講座に出てみることにしたわけです。
こういうものがあるともっと早く知っていたら、もっと早く通い始めてたんですが、ちょっと情報を知るのが遅すぎました・・・。
現役で脚本家の仕事されてる方の多くもここのスクールを出ている人たちらしく、自分も心機一転、キャリアの積み直しをするつもりで1から基本を学び直してきたいと思います。

「すでに作家デビューもしてて、シナリオライターとして仕事もしてて、いまさら学ぶことがあるのか?」と聞かれそうですが、僕も正直通ってみるまでよくわかりません。
ただ独学でやってきてしまった自分には、業界の人間なら知ってて当たり前の知識や基礎はたくさんあるのだと思います。
自動車で例えれば、無免許で運転してはきたけど交通標識の読み方は一つも知らないぐらいのものです。

また、センスや勘だけで書くのでは書けるモノに限界がありそうなので、そういった要素を補える技術も習得できたらと思います。
特に、シナリオって教えられたり強制されない限り、自分の好きなものしか書かなくなってしまうので、課題で色んなものを書かされる環境に身を置いてみるのは成長に繋がりそうだなと思います。

本業ではWEBエンジニアを名乗ってるくせに、言語に関する技術は全然やる気ないんですが、シナリオに関しては何でも学んで見たいというモチベーションが我ながら結構高いです。
こういう部分も性分として、自分はけっこう向いてるんだなあと改めて感じました。

www.scenario.co.jp

10月16日(水)から毎週水曜に半年間、夜18:30から2時間ぐらいの講座があるそうで、こちらに通ってみるつもりです。
すでに申し込み登録は済んでるので、もう後には引けない感じです。

またせっかくなので、講座を受けての感想とか、どんな課題をやったとか、可能であればこのブログで今後もレポをお伝えしていければと思ってます。

www.scenario.co.jp

それと、来週の9月11日(水)から5回ほど、企画書講座というものも開かれるそうで、本講座の前にこちらの方にも出席してみたいと思います。

ちなみにこれらの講座の学費は全て、これまで電子書籍を出版して得た売り上げから出させていただきました。
小説を書いて得たお金で創作を学びにいくって、我ながら究極のエコシステムって感じですね(笑)

応援していただける方がいらっしゃいましたら、ぜひ学費のカンパも兼ねて電子書籍を買って下さい!(再度の宣伝)

半年の講座のあと、もう半年ほどゼミ期間があって、合計一年間かそれ以上の期間スクールを通うことで、いちおう修了になるそうです。
そのあとはシナリオライターとしての選択肢が幾つかあるみたいなんですが、いきなりコンペや賞に出してデビューを目指すのか、もうしばらく本業に専念するのかはちょっと未定です。

とりあえず、作品を完結まで継続してみることで、多くの長編を書くための技術が学べる場にはなってるので、『アーマードール・アライブ』の連載は今後も続けて行く予定です。
読者の皆さんはご安心していただければと思います。

ただ、今後シナリオライターとして活動するうえで、今の「幾谷正」という名義はできるだけ使わず、別人として活動していきたいというのが本音です。
過程はどうあれ問題を起こしてしまったのは事実ですし、売れないラノベ作家という烙印がむしろ仕事の邪魔になることも多そうなので・・・。

また、ラノベ作家という仕事を今後またやりたいかと言われたら、正直言ってやるメリットはやっぱり感じられないですね。
どうせ作品を出すだけなら個人で電子出版すればいいですし、どうせ異世界転生以外は売れない市場なので、無理して書きたくないものを書いてまですがりつくメリット無いですし。

これからラノベ作家を目指す人や、自分のように辞めた人にとって、どんな道があるのかを示す意味でも、今後もレポートは残していくつもりです。

以上、幾谷正でした。
来週は初回の企画書講座のレポをアップできるよう頑張ります。

巨大ロボットや変身ヒーロー作品における個人と役割の対立とブラック公僕ドモン・カッシュ

※この記事には『アベンジャーズ/エンドゲーム』『トイ・ストーリー4』『機動武闘伝Gガンダム』『宇宙の騎士テッカマンブレード』のネタバレが含まれています。

今年の5月、あの話題の『アベンジャーズ/エンドゲーム』を見に行きました。
あれだけ「アベンジャーズが終わる」とCMで言われていたのに、「いやいやまさか本当に終わるわけないじゃん」と思って見に行ったんですが、見に行ったら「本当に終わった!?」って結構度肝を抜かれました。
それぐらいあの完膚なき終わりっぷりには衝撃を受けましたし、大好きなキャプテン・アメリカ「自分の人生を生きてみようと思った」というセリフは、寂しくも味わい深いセリフでした。

また先月はネットで色々と話題になっていた『トイ・ストーリー4』も見に行きました。
ネットの前評判でかなり評価が分かれていたとおり、僕も見に行って「面白いけどちょっと違うな・・・」というテンションで劇場を出ました。
仮にこれが「トイ・ストーリーが終わる」ってCMで言われて見に行ったなら良かったんですが、好きなアイドルのコンサートを見に行ったらいきなり引退発表をされたぐらいの戸惑いがありました。

さて、作品の評価や感想はさておき、僕がふと気になったのはこの『アベンジャーズ/エンドゲーム』も『トイ・ストーリー4』も、一つの共通のテーマに基づいて描かれて居ることに気がつきました。
それはキャプテン・アメリカというヒーローや、ウッディというオモチャが、永きにわたって担ってきた自分の役割を引退する物語だったという点でした。

役割に命を賭けることを美徳としてきたヒーロー像

彼らヒーローは作中の時間軸において長い時間と人生をかけて自分の役割を果たし、我々ファンはシリーズを長い時間追いかける中でその姿を追いかけてきたわけです。
ただ多くの作品において彼らの最後は、「役割を果たして個人の人生を捧げること」を美徳として描いて終わることが多いと思われます。

その点で『アベンジャーズ/エンドゲーム』が非常に“新しい”なと感じたのは、ヒーローの最期の描き方の対比です。
アイアンマンというヒーローの役割に殉じたトニー・スタークの死を痛ましいものとして描く一方で、キャプテン・アメリカというヒーローを降りて自分の人生を生きたスティーブ・ロジャースの引退を非常に綺麗なものとして見せていました。

これまで「兵士なら戦って死ぬべき」「戦士は戦場で死ぬのが役割だ」というテーマの作品を無意識に賛美し、それが当たり前の価値観であるかのように思い込んでいた部分があると思います。
むしろ「ヒーローが自分の役割を捨てて自分の人生を生きる」という物語は役割からの逃避や責任の放棄として否定的に描かれることが多かったテーマだったと思います。
その点で「死以外の形でヒーローがその役割から降りて個人に戻る引退の物語」を描いた『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、キャプテン・アメリカというヒーローのファンとしては非常に納得する部分が多い作品でした。

そして同時に、キャプテン・アメリカというヒーローはそもそも“第二次世界大戦で戦った肉体改造を受けた軍人”という設定であることは注目されるべきだと思います。
彼は「実在の軍人のメタファー」という要素を内在したキャラクターであり、彼の人生が「退役して自分の人生を生きた兵士」として描かれた事実は、それだけでも現実に対して価値ある結末だったと思います。

だって実際に国のために戦っている軍人が、フィクションの中だったとしても「兵士は戦って死ぬべき!」「生きて帰ってきた奴は逃げ帰ってきただけだ!」なんてテーマの作品を見せられるの、いくらフィクションでも嫌なものが有ると思います。
このあたり、軍人という存在が日本よりも身近なアメリカの文化や社会において、「引退した兵士がどう生きるべきか」というテーマは時代性と照らしていい加減にできないテーマだったんじゃないかなと思います。

そもそもヒーローとは役割と個人の対立である

そしてこの考えに至ったときふと思ったのは、「そもそもあらゆる作品のヒーローというのは役割と個人の対立を描くためのテーマじゃないのか」という気づきがありました。

変身ヒーローの場合は「突然なんらかの偶然で力に目覚める」というタイプの作品が多いので意識しづらいですが、『スパイダーマン』に出てくる名フレーズ「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉は、スパイダーマンに限らずあらゆるヒーロー作品に対して当てはめられる共通のテーマかなと思います。

それに対して巨大ロボットの場合、組み立てるにも運用するにも修理するにも多くの人間の力を借りる必要があり、それは所属する組織や人間関係などと切っては切り離せません。
多くの人間が関わって生み出されたロボットのパイロットという役割を、誰が担うのか、どうその力を扱うのか、というストーリーは「与えられた役割をどう全うするか」というテーマに他なりません。

早い話、「巨大ロボットのパイロット」とは「社会から与えられた仕事」であり、主人公の役割とは「社会から与えられた仕事を全うすること」なのです。

これをメタ的に作品の設定に取り入れたのが『地球防衛企業ダイ・ガード』や、武装の使用に政府の認証をいちいち必要とする『勇者王ガオガイガー』だったりします。

日本でこれだけ多くの巨大ロボット作品が作成され愛されてきたのは、「与えられた役割を個を殺して果たす」という挺身の精神を美徳とする日本の価値観にマッチしていたからこそではないでしょうか。

ブラック公僕ドモン・カッシュ

「個を捨てて役割を果たす」という日本の主人公像を紹介する例として相応しいキャラクターを考えたとき、例として最も相応しいと思ったのが『機動武闘伝Gガンダム』の主人公ドモン・カッシュでした。
彼は自由気ままに私情で行動する熱血バカの格闘家――と本編を見てない人からは勘違いされがちですが、その実態は紐解いてみると全く真逆です。

  • 国同士の利権を賭けて争う代表戦争制度ガンダム・ファイトのネオジャパン日本代表(戦争の最高責任者とオリンピック代表を一人でやらされてるようなもの)
  • 身内が起こしたアルティメット・ガンダムの暴走事故の責任を取る形で、父親を冷凍刑で国に人質に取られ、指名手配犯となった兄を追う特命捜査を命じられている。
  • 古くから「秩序の守り手」と呼ばれ、歴史上の数多くの戦いや事件を陰から調停したというシャッフル同盟の後継者として任命されている。

といった感じで、番組開始の第1話の時点で既にこれだけ大きな役割を3つもいきなり与えられています
オリンピック代表選手と国際警察とNPO団体をいきなり一人でやらされてるようなものです。ガンダム主人公の中で誰よりも任務に忠実なブラック公務員です。

ただし番組前半のドモン・カッシュという個人は「家族を裏切った兄を追う」という復讐の心に燃えており、個人と役割は一致しており対立を起こしてはいません。

問題は、「アルティメットガンダムを暴走させた犯人と思われていた兄が、実は巻き込まれただけの被害者だった」と判明する番組後半の第44話「シュバルツ散る!ドモン涙の必殺拳」です(改めて見てもスゲ―タイトルだなこれ)

ドモンはデビルガンダムと化したアルティメットガンダムを止めるため、大好きな兄を自分の手で討つことを迫られます。
そこでドモンは「嫌だ・・・僕には出来ない!!」と弱り切った声を上げます。彼はずっと俺口調で話してきたのですが、この回で初めて僕という一人称を使います。
これは声優である関智一さんのアドリブだったとも言われてますが、どちらにせよ、彼がドモン・カッシュという個人の心情を吐露したセリフとして非常に印象深いものになっています。

結局兄であるキョウジ自身から「甘ったれたことを言うな! その手に刻まれたシャッフルの紋章の重さを忘れたか!」「お前もキング・オブ・ハートの紋章を持つ男なら、情に流され、目的を見失ってはならん!」と発破をかけられ、最愛の兄をその手にかけることになってしまいます。

このシーン、素晴らしく熱い名シーンではあるんですが、ちょっと視点を変えると「役割を真っ当するために家族を殺すことを強要される」という中々にヤバいテーマも内包されてしまっています。
「仕事が忙しくて親の葬式にも出られないブラック公務員」なんて目じゃないレベルの公益遵守精神です。

結局ドモンはその後も、キングオブハートの後継者として最愛の師をこれまた討ち、ガンダムファイトで優勝し、与えられた役割の全てを見事に全うしてみせます。
任務に忠実という設定になってるガンダムWヒイロ・ユイよりしっかり役目をこなしてます。ヤバいですね。

ただこのGガンダムという作品が素晴らしいのは、ただそれだけで結末とせず、第46話から最終話にかけて「ドモン・カッシュという個の確立」までもを追っているところです。
その結末は既に作品を見終えている皆さんにとっては周知の事実なので今更語りませんが、まだ見てない人にはぜひその目で確かめて欲しいです。

Gガンダムという作品は一言でまとめると「ドモン・カッシュという個と、キングオブハートという役割の合一する過程」の物語であり、そのシンボルであるハートマークが一貫して使われ続けるのはマジで頭がおかしいぐらいよくできてますね。
言わば仕事も恋愛も手に入れたスーパー公務員です。

正直、全ガンダムシリーズの中でも三本の指に入るぐらい、しっかりとしたシナリオに支えられた視聴後の満足度が高い一作だったなと思います。

役割に殉じてしまったヒーローたち

そしてドモンとは逆に、個を本当に役割に捧げきってしまったヒーローという主人公像も存在します。

たとえば『宇宙の騎士テッカマンブレード』の主人公テッカマンブレードはその典型でしょう(あえてDボゥイと呼ばない)
このアニメはGガンダムの2年ぐらいまえに放送されたアニメですが、こちらも「役割を果たすために愛する人たちを手にかける」という作品のテーマは共通しています。

ただGガンダムとの決定的な違いは、「役割を果たすために個を殺す」物語だったという点です。
彼が最終話で放った「Dボゥイも相羽タカヤも、今ここで死んだ! 俺は……テッカマンブレードだ!!」というセリフはまさにこの作品を一言で表しきっている名台詞なんですが、マジで「役割のために全てを犠牲にしてしまった男」なんですね。
過労死鬱病寸前まで陥ったブラック社員のブレードさんでしたが、なんとか無事に生還できたという意味で『テッカマンブレードⅡ』は僕は良かったと思ってます。いや良かったですよね?

他に「殉じた」というわけではありませんが、「与えられた役割を全うしていたら知らないうちに犠牲にされていた」という物語が『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメの一側面でもあります。
実は初代のエヴァGガンダムと同年代のアニメなんですが、作品としての完成度とか読後感だけで比べるなら僕は圧倒的にGガンダムの方が見るべき名作だと思ってますね。

主人公碇シンジの名台詞と言えば「僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット碇シンジです!」ですが、結局彼が「エヴァンゲリオンパイロット」という役割を果たすことで、事態は取り返しがつかないほど悪化し、彼の個を捨てた献身は他人に都合良く利用され続けていきます。
ドモンが最愛の師匠を手にかけることで自身の役割を全うしたのに対し、碇シンジは友人である渚カヲルを手にかけたことで決定的に破綻し、主人公も作品もその世界もついでに監督の精神まで巻き込んでぶっ壊れてしまいます。
これはある意味「与えられた役割を無思慮に果たす熱血アニメの主人公に対するアンチテーゼ」として当時は斬新だったと思えるんですが、結局「役割の否定とはロボットアニメというジャンルそのものの否定にしかならないのではないか」と僕は思いました。

働き方改革を求められるヒーローたち

アベンジャーズキャプテン・アメリカを引退させたように、社会は「ヒーローの死を尊く描く」価値観から脱却し、個人の救済をテーマに物語を作り始めているのが世間の潮流だと僕は感じています。
これは日本のロボットアニメというジャンルが国際的に広がっていくためにも必要な過程で、いつまでも過労死するパイロットを描くのではダメなのかなと思ってます。
ロボットアニメも働き方改革を求められてる時代です。

アーマードール・アライブ  Ⅰ 〜死せる英雄と虚飾の悪魔〜

アーマードール・アライブ Ⅰ 〜死せる英雄と虚飾の悪魔〜

たとえば僕も同人サークルとして、巨大ロボットモノのライトノベルを書いていますが、この作品の第1巻のモチーフは「自分を犠牲にして戦ってきた主人公が個を取り戻す」という過程を描いてます。
作中で主人公が「ワーカーホリック」と揶揄されるギャグを入れてるんですが、このギャグはテーマに対して意図的に入れたものでした。

もし自分の作品を書いている人が見ていたら、「主人公の個と役割」を一度具体的な形に明文化してみて、それがどう対立しているのか、あるいは合一していくのかを意識してみるとドラマが作りやすいと思います。
逆に「ヒーローとは役割=仕事である」というメタ的な視点を逆手にとって、『敵が出現してしまい娘の誕生日パーティーに間に合わない変身ヒーロー』みたいなモチーフとか考えつくかもしれないですね。

ただどちらにせよ、「役割を全うするために個人の幸せを犠牲にする」という作品がウケにくくなってしまったのは、今のご時世的に仕方ないのかなとも思いました。

終わり。

小説を100万文字書くよりガソリンをまいて燃やす方が簡単だったのにどうして僕はまだ小説を書いているんだろう

ja.wikipedia.org

「創作をやったことがない人は知らないかも知れないけど、小説を100万文字書くよりガソリンをまいて燃やす方が簡単なんですよ」

先日の京アニの放火事件を受けて僕はこのようなツイートをTwitterに投稿したところ、色んな人に不謹慎だと怒られたりテロ擁護だと叩かれたりしてしまいました。

このツイートが原因かは分かりませんが、その数日後、Twitterのアカウントが急に凍結されてしまい、僕は本気で「TwitterJAPANにガソリン持って乗り込んでやりたい!」と怒り狂ってしまいました。
皆さんもご存知のとおりTwitterの凍結基準は年々厳しくなる一方で、一度でも凍結を受けたことのある人間は「反省の余地無し」と見なされ以降のアカウントの作り直しが認められません。
一度丸の内にあるTwitterJAPANの本社で受付から電話越しに「どうして作り直しが認められないのか」と抗議に言ったことがありますが、「お答えできません」の一点張りでした。

とはいえ、僕は同人サークルとして作品を販売している都合上、どうしても作品の宣伝や新規ファン獲得のためにTwitterを利用する必要があります。
自作した作品の公式サイトにGoogleAnalyticsを設置していますが、集客はほとんどTwitter頼りですし、Twitterから撤退するとアクセス数に天と地ほどの差ができてしまいます。
それにTwitterでつぶやくことで興味を持って新規の読者になってくれる方も数多く、売り上げは順調に伸びている状況です。
どれだけ「Twitterは悪口ばかりで悪影響だ」とか「規制がキツくてつまらなくなった」といったところで、世間のオタクたちがTwitterからしか情報を集めない連中ばかりになってしまっているのは紛れもない事実でしょう。
自分が作家として再起するためには、不本意ではあってもその支配的な状況に迎合する必要があるわけです。

幸い抜け道はあるもので、色々と手を尽くせばアカウントの作り直しはできるし、作品の宣伝をするチャンスは永久に失われたわけではありません。
僕はまた性懲りもなくアカウントを作り直しますし、多少怒りや不満を覚えたりはしますが、おそらく悪意を持ってTwitterの本社に突撃することはないでしょう。

ただ、「一度でも失敗した人間に二度と再起のチャンスは与えない」という現実を突きつけられるたび、どうしても「燃やしてやる!」と思わずには居られなくなります。
それは今回の凍結の件に限らず、日本で暮らしているとそういう感情に駆られる機会は本当に多いですし、自分が作家として活動する中で何度もこういう思いを抱くことがありました。
幸い実行はしないで済んでいますが、いつ自分が青葉真司容疑者のような行動に出てもおかしくなかった時期があったと本気で思っています。

今回の事件は痛ましいものですし、犯人を許すべきではないと思いますが、同時に「こういう事件を二度と起こさないためにはどうしたらいいか」と考える必要もあると思いました。
その糸口を考える上で僕は、自分が一度そういう気持ちに駆られたことのある人間として、なぜ自分は踏みとどまれているのかという自分の内面について真剣に考えていました。

最初に言った「ガソリンをまいて燃やす方が簡単だ」という言葉は、その過程で出てきた言葉だったりします。

別に僕の言ったとおりにしたところで事件の再発が防げるわけではないですし、むしろ今後もこういった事件は無くならないだろうとすら思っています。
ただ自分の内面を観察する中で、自分がどうして創作を続けているのか改めて気づくところがあったので、この機に言語化しておきたいと思います。

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「ほならね自分がやってみろ」と100回言われても何もしなかったお前は耳と目を閉じ口を噤んで孤独に生きろ

ネットには〝ほならね理論〟という言葉がある。

ほならね理論とは (ホナラネリロンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

詳しい解説は引用先に任せるが、簡単に言えばクリエイターや作品を発表する人間が文句を言われたとき、視聴者に対して「自分でやってみろ」と返すことをこう呼ぶそうだ。

そしてこの〝ほならね理論〟は、発言したyoutuberがネットでネタ的に扱われることもあって、発言そのものもまるで一笑に付すべきもののように扱われている。

ただ僕は正直、この「ほならね理論は悪」という決めつけが、正直なところ全く理解できない。
だってこれ、自分では何もしないで人のやることに口だけで文句つけるような連中が、自分にとって都合が悪いから必死に「悪い言葉だ」って言い張ってるだけじゃないのか?

別に僕は「お前達にはどうせできないだろう」だなんて全く思っていないし、煽るつもりは全くない。
心から本気で「その気持ちが創作を始めるための第一歩だよ」と思って声をかけている。

僕自身も他人の作品に対して色々と不満に感じたりすることがあり、その気持ちが高じて「自分ならもっと上手くシナリオが書けるはず」と思ったことで小説を書き始め、ライトノベルの新人賞を取って商業デビューまでした。
実際、自分でやってみたことでシナリオやキャラクターを考え、魅力を伝えていく作業がどれだけ大変か思い知ったし、逆に他人の作品の粗に対してもより敏感になった。

また、最近は編集や出版という作業すら「俺にやらせろ」と思い始め、個人で電子出版をしてシリーズを続けている。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B075TTY2YC/www.amazon.co.jp

自作の宣伝はさておき、僕は〝不満を抱く度に自分を変える努力をしてきた人間〟だ。
だからこそ思う。
お前らはなぜ何もしないのだ? と。

たとえばお金を出して買っている作品に不満があるなら、次からその作者の作品を買うのをやめればいい。
もし許せる程度の不満があるなら「次はもっとこうしてほしい」と、読者なりの純粋な思いを作者にぶつければいい。
これは作家として活動している僕自身、期待を持ってもらえるのはとても嬉しいことだと思うので、少なくとも僕は言って欲しい。
そして「この作品をどうしてもよくしたい」と思うなら、例えば自分が制作者サイドの人間になるために企業へ履歴書を送ったり、制作者にメールを送るのは、間違った行動ではない。
実際、そういう形で作品に関わり公式側になった人間というのは、創作に限らず一般の商品でもサービスでも数多い。
君に本当に相手への愛情があり、変えたいと願うなら、君は行動するべきだ。

そして、自分がお金を出して買ったわけでも、中身に触れたわけでも、ファンとして期待しているわけでもない赤の他人の作品に対して、君が言うべき言葉は何も無い。
作品がどうあるべきかは作者と読者が決めるべきことであり、君は作品にとって何の関わりもないただの他人だ。
仮に君がどれだけ賢く優秀で世の中のことが何でも分かる万能の知性があり、それを誇示したいのだとしても、読んでもいない作品がどうあるべきか、君に決める権利はない。

例えば小説を書くとか、youtubeで配信をするとか、コードを書いてプログラムを組むとか、ネットにはそういう作り出す活動をしている人たちが数多くいる(僕はこの三つを全部やっている)。
彼らはまるで当たり前のように「誰でもちょっと頑張れば簡単にできることですよ」と言うが、実際僕もその通りだと思う。やろうと思えば意外に簡単にできるものばかりだ。

だが、まだ何もしていない君たちは、まだ何もしていない人間だ。
その作り出す作業にどんな苦労があり、どんな気持ちになり、どんな問題があるか、何も知らない。
君たち無知な人間の言葉はあまりにも稚拙で現実を見ていない、見当外れなものばかりだ。

そして、それでも「俺の考えるアイデアの方がもっと素晴らしい」と本気で思うなら、ぜひ実践して、証明してくれ。
君が成功し、僕たちに道を示し、新たな可能性を切り拓いてくれることを心から望んでいる。

だが君たちは、僕たちがどれだけ期待をこめて「やってみろ」と言っても、結局いつも何もしない。
ただ世の中に溢れる作品や商品に対して、不満を並べ、自分を変える努力もせず、思い通りにならない作品とわかっていながらなぜか律儀に金だけは払い続ける。

たとえば不満を言いたくなるようなコンテンツには、わざわざ自分から触れないように努力してほしい。
たとえば改善の望めない作品に不満があるならば、自分はファンでないのだと諦めて作品から離れてほしい。
たとえばどうしても諦められず変わって欲しいと思うなら、自分で作るための行動を始めてほしい。

そして、もし君が自分を変える努力を何一つしないと言うのなら、耳と目を閉じ口を噤んで孤独に生きてほしい。

プラットフォームや出版社に支配されたくないラノベ作家が自作を公開&DL販売できるサイトを自作した話

みなさん、今日もプラットフォームに支配されてますか?
電子書籍サークル「FunnyCreative」主催の幾谷正です。

  • はじめに
  • 小説家になろう』とかいうクソサイトは『小説家にしてもらおう』に改名しろ
  • WIkipediaの解説を公式サイトがわりにするのやめろ
  • 出版社は要らないけど編集はやっぱ必要
  • 自作と言うほど作ってはない自作サイトの作り方
    • 最後に

はじめに

このブログで何度かお話している『アーマードール・アライブ』の公式サイトですが、「いっそ販売までサイト内で出来るようにしてみたい」と思って色々試してたんですが、先日ようやくサイト内に作品のEPUBとPDFのデータをダウンロード購入できる販売機能を実装することに成功しました。

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ショップのページはこちら

決済部分はPaypalとStripeのゲートウェイを利用して実装しているので、これらを経由してクレジットカードでの購入も可能になってます。
そして本日、この販売機能を利用してシリーズ最新刊となる第5巻のプレリリース版を公式サイトで販売開始させていただきました!

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『アーマードール・アライブⅤ』(プレリリース版) – アーマードール・アライブ

連休前に入稿が間に合わなかったこともあり、審査に時間のかかるKindleとかBOOK☆Walkerへの登録は、まだもう少し時間がかかる予定です。
なので「いち早く新刊が読みたい!」という読者の皆さんは、ぜひこちらの公式ストアで購入してみて下さい。(せっかく作ったのに使ってもらえる機会がないと悲しいので)

こうした審査も登録も契約も必要ない、自分の裁量で好き勝手できる販路を独自に構築することの恩恵を今回は改めて感じました。

また、1~4巻までの既刊も販売しているので、今回初めて僕の作品を知った方も、良ければ試しに購入してみてください。
ちなみにKindleとかのストアでの販売価格より若干安めの設定にしているので、ちょっとだけお得です。

試しに現在販売しているストアを、印税率が高い順番に列挙してみると、以下のような感じです。



  • 約95%

公式サイトの直販ショップ
BOOTH

  • 80%

理想書店ボイジャー直販)

  • 55%

Kindleストア(Amazon
紀伊國屋書店
楽天Kobo
BookLive!(凸版印刷グループ)
Reader Store(Sony
ブックパス(au
iBooks Store(Apple

  • 50%

DLsite


っていう感じになってます。
こうしてみると、商業作家時代に10%なんてカスみたいな印税率で書いてたのがもはや信じられませんね。

最近はプラットフォームにまつわる問題の話が、ネット中のあちこちから聞こえて来ます。
例えば僕はPCゲーム大好きでsteamのヘビーユーザーなんですが、ゲームパブリッシャはsteamの取り分に不満を抱いて別のプラットフォームでの独占販売に切り替えるという流れが増えてきてるみたいです。

Epic Games CEO、Steamが収益配分をEpic Gamesストアと同等にするなら、独占タイトル販売をやめると語る | AUTOMATON

また他にも、amazonが審査を強化して成年コミックの取り扱いを急に取りやめるなんて話も聞こえてきました。

Amazonさん、「LO」に続き「月刊メガストア」の取扱を終了→もちろん理由を開示されず - Togetter

規模やジャンルの違いは多々あれど、共通して言えるのは“プラットフォーム依存のリスク”にまつわる問題じゃないかなと思います。
僕も自分がこうして小説を出版しているコンテンツパブリッシャー側の人間として、他人事じゃないなと感じるところがたくさんありました。

そもそも僕が出版社依存の商業作家をやめ、アマチュア作家として個人出版の形で作品を継続しているのも、今思い返せば出版社というプラットフォームからコンテンツパブリッシャとして問題を感じて独立するための行動でした。

僕が商業出版を脱走してからこれまでの経緯についてはこの記事でまとめてるので、詳しく知りたかったら見てください。
「幾谷正って誰?」って人のためにラノベ作家デビューして出版社に絶望して炎上して電子出版始めて個人で3000部売るまでの経歴をまとめました - Funny-Creative BLOG

そして、このソーシャルメディア全盛の時代に、あえて個を貫くことをモットーとして活動して来た僕としては、プラットフォーム支配からの脱出について、結構自分なりの考えを持つようになってきました。
たとえばゲーム開発会社がSteamをやめてEpic Gamesに移ったところで、Epicが取り分を減らして来たらまた同じことの繰り返しです。
あるいは出版社との仕事でひどい目にあった作家が、契約を打ち切って別の出版社に移籍したところで、結局移った先が本当に善良な出版社であるとは限りません。

もはやプラットフォームの支配から逃れるためには、自分以外の何者も信じてはいけません。
孤立を愛し、立ちはだかる問題を力づくで解決し、泥にまみれて地を這ってでも生き延びるしかないのです。
で、結局何をしたかというのが、冒頭でお話しした「やっぱ自作サイト作るしかなくない?」という原点回帰的な発想でした。

自作サイトなんて数十年前に流行った過去の遺物と思われている節もありますが、歴史は波形を描くように周期的に繰り返し、戦争と平和と革命の三拍子を刻み続けるのです。
支配によって築かれた平和を破壊し、個が個として生き抜いて行く闘争の時代はすでに目の前まできているのです!!

というわけで今回は、「そもそもなんで自作サイトをわざわざ作ろうと思ったのか」って経緯について、順を追ってお話ししてみたいと思います。
僕はラノベ作家という立場の視点からしか話をすることができませんが、これはあらゆるコンテンツパブリッシングに共通する部分があるかと思います。
また、「出版社と組むだけが作家の道なのか?」と疑問を持ってる作家志望者とか、実際プラットフォームを利用して不満を感じてる人にもぜひ見ていただけるといいです。
また、「自分もサイト作って見たいけど何から手をつけていいかわからん!」って人のために、簡単な作り方の手順についてもご紹介しているので、ぜひ参考にしていただければ幸いです。

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〝アイドルアニメはアイドルよりもファンの描写が気になってしまう〟タイプのオタクが選ぶファン描写がヤバかったアニメ

皆さんアイドルアニメって好きですか?
僕はそこまででもないです。

自分が誰か他人に対して熱狂的になったり好きになったりできない性格なので、楽しみ方がよくわからなかったりします。
ですがそんなことを言いつつ、ときどきめちゃめちゃ好きになるアイドルアニメがあることに気づきました。

共通点を探ってみたところ、どうも僕は「アイドルよりもそのファンたち」の描写に心を掴まれてるオタクらしいのです。
自分がなにかに熱狂できないからこそ、そんな熱狂を見せてくれる名もなき彼ら彼女らに感銘し、その感情を追体験することでアイドルのこともまた好きになっていくわけなのです。
考えてみればアイドルという存在を描く上で、アイドルをアイドルたらしめる不安の存在は置き去りにできません。
バーフバリ王が民からの信頼と忠誠を集めるからこそ王であるのと同じです。

そんなわけで、この癖(へき)に気づいたきっかけである「このアイドルアニメのファン描写がヤバイ!」という作品をご紹介してみます。

『プリパラ』ガーディアン定子

最初にご紹介するのは4年余りもの間、人気シリーズとして放映された女児向けアイドルアニメ『プリパラ』のガーディアン定子さんです。
”ガーディアン”というのは芸名みたいなもので、彼女の本名は御前定子というそうですが、4年目に入るまでこの本名は発覚しませんでした(←?)
シリーズ1年目の最初期から登場する重要なキャラクターであり、個人的な意見ですが、プリパラというアニメが4年にもわたって続く長期シリーズになったのは彼女の存在があったからこそだとすら思っています

彼女はメインキャラクターである大人気アイドル北条そふぃの親衛隊の一人として登場します。
本作の主人公である真中らぁらはソロのアイドルとして活動するそふぃさんを「自分のチームに入って欲しい」と決意して引き込もうとしますが、
身勝手な理由でそふぃ様に近づこうとするらぁらを、定子たち親衛隊は「ガーディアンシフト」のかけ声とともにバリケードを作って阻むというのが恒例の流れになっていました。

一方、そふぃはマネージャーの無茶な要求によって疲弊しており、今のままソロ活動を続けるのが本人のためにならないと親衛隊たちも気づいています。
親衛隊たちは「孤高の存在として活動を続けて欲しい」という思いから、らぁらの勧誘行為を阻み続けます。
そして問題のプリパラ第12話、1クール目の締めくくりとなる回。
らぁらが実力行使でそふぃをマネージャーの手から解放しようとすると、親衛隊たちは立ち上がり、それまでらぁらを阻むために発動してきた「ガーディアンシフト」のかけ声を、らぁらの逃走を手助けするために発動します。
あ、思い出したら泣けてきたので五分ほど待ってください・・・。

プリパラのオタクはこのシーン、思い出すだけで泣いてしまうと思います。解説だけだと伝わらないと思うので、まだ見てない方はぜひご覧になってみてください。

このシーン、一見すると“主人公の敵だったキャラが味方になってくれる”というベタな定番シーンですが、視点を変えるとまた違った見方が生じます。
親衛隊に守られるそふぃ様にとって、マネージャーも親衛隊の彼女らも「現状のままでいろ」と彼女を閉じ込める檻のような存在でした。
これは脱出の手助けをしてくれた親衛隊に対してそふぃが「あなたたちはマネージャーの味方じゃなかったの?」と聞いていることからもうかがい知れます。
しかし定子は「そふぃ様にとってどちらが幸せなのかと迷ったときもありましたが目が覚めました」と答えて、彼女を送り出すのです。

現実にもアイドルが「新しいことに挑戦したい」と言って、これまでと方針を変えたり、事務所を辞めてしまうことはよくある話だと思います。
ファンもまたそんなアイドルに対して「今のまま理想のアイドルで居続けてほしい」と、彼ら彼女らの行く手を阻んでしまうことはよくある話です。
しかしガーディアン定子というキャラクターは、「推しの幸せを思って送り出す」という素晴らしいファンのあり方を私たちに見せてくれたのです。

この回を経て主人公達は『SoLaMi♡SMILE』というユニットを結成し、以降の4年間を主人公チームとして視聴者である女児達の憧れの存在で居続けます。
物語の役割として重要であるとともに、アイドルにとってファンの存在がいかに大切かを伝える役割を持ったキャラクターとして紹介させていただきました。

少年ハリウッド -HOLLY STAGE FOR 49-』富井大樹

次にご紹介するのはガーディアン定子のような準レギュラーキャラとしてのファンと打って変わって、レギュラーであるメインキャラの一人がファンというパターンをご紹介します。

少年ハリウッド』という作品はそもそも、ファンとアイドルの適切な距離感や、ファンにとってどんな存在であるべきかを徹底して追求してくる、リアルなアイドルの描き方をしています。
この作品におけるファンは「身勝手に自分の理想をアイドルに押しつけてくる存在」であり、なおかつアイドルは「その理想を命がけで体現する生贄」として表現しています(個人の見解です)

少年ハリウッドとは5人の男の子からなる駆け出しのアイドルグループですが、劇中にはその初代となる『少年ハリウッド』が存在し、主人公の彼らは2代目を襲名する形でデビューします。
その中の一人に富井大樹、愛称トミーというキャラクターが居ますが、彼は初代少年ハリウッドの大ファンで、「自分も憧れの初代みたいになるんだ」と目を輝かせて活動を開始します。
しかしアイドル活動の中で、自分が思い描く理想の姿と、その理想と一致しきれない自分とのギャップに悩み、苦しむことになります。

普通の美少女アイドルアニメでもメインキャラに「アイドルオタク」という設定のキャラクターが出てくることはありますが、それは「ファンの心理をつかむのが得意」みたいな長所として描かれる場合が多いです。
トミー場合も確かにファン心理の理解が得意なのですが、むしろ「その心理を理解しているからこそ、それに一致しない自分とのギャップに悩む」というハードルとして描かれていたのが印象的でした。

自分もこの作品を最初に見始めたとき、彼の存在があったからこそ、「このアニメは普通のアイドルアニメとは何かが違うな」と気づくきっかけにもなったという意味で印象的なキャラクターでした。

少年ハリウッド -HOLLY STAGE FOR 50-』カケルくんと握手した女

更に続けて少年ハリウッドの話をしますが、今度はこれまでの名有りキャラとは打って変わってたった1話しか登場しない名前もないモブキャラのファンです

彼女が登場するのは第16話「本物の握手」という回です。
この回で少年ハリウッドのメンバーたちは握手会イベントを行いますが、変則的なルールとして「町中を歩いているメンバーにばったり会えたら握手できる」というゲリライベントとして開催します。
このときイベントを主催した事務所のシャチョウは「24時間アイドルでいるように」とヒントだか何だかよくわからないアドバイスをかけます。

メンバーたちは「俺は普段こんな店には行かないんだけど、ファンは「こういう店に居てほしい」と思ってるだろうな」と考えながら街を歩き、そこには案の定ファンが待ち構えている・・・という形でストーリーは進みます。
先ほども書いた通り、ファンはいつだって身勝手な理想を求めてくる存在として描かれているのです。

イベントの終盤、主人公である風見颯(16歳)は、一人のファンの女の子に出会います。
その女の子は「颯くんと握手したくて一日中探し回っていた」と話し、心から嬉しそうに彼との握手を果たします。
ここまでなら普通の感動的なアイドルアニメなんですが、少年ハリウッドというアニメがヤベーのはここからです。
そのファンの女は、憧れの颯くんに対してこんな言葉を投げかけます。

「カケルくん。握手できないぐらいになってください。
武道館とか、ドームとか、なんか、すっごくすっごく大きなところでお客さんをいっぱいにしてる少年ハリウッドが……カケルくんが見たいです。
そしたら今日のこの握手が、もっともっと宝物になるから」

マジでヤベーなこの女!!!

丸一日歩き回ってやっとの思いで推しのアイドルを見つけて、念願の握手をできた矢先にこのセリフですよ。
確かにアイドルを応援するファンにとって、アイドルとどんな距離感で居たいかは難しい問題だと思います。
街を歩いていたら普通に見かけるような存在であっては嫌ですし、ばったり会ったとき理想とは全然違う姿をしていたら幻滅です。
本当は毎日会って握手をしてお喋りできたらと思う一方、日常とかけ離れた特別な存在でも居て欲しいものです。
皆のもので居て欲しいと思う一方、自分一人のものでも会って欲しいものです。

そんな矛盾した身勝手なファンの感情が、このファンの言葉と行動に集約されていると思います。

あなたは自分の憧れの人物に会ったとき「こんな簡単に会えなくなってほしい」なんて言えるでしょうか? 僕は無理だと思います。
放映後、視聴者たちは「推しにこんなこと言えるわけねえだろ・・・」「こんな圧倒的に正しいファンになれるわけねえよ・・・」と心をえぐられたオタクたちで死屍累々になっていました。
しかもこんなに凄いセリフを放ってくるキャラが、たった1話限りの名前もないただのモブファンってところが益々ヤバイと思います。
この作品に出てくるファンたちは、生まれたときから自分がファンになる存在であることを宿命づけられて生まれてきたんじゃないかってぐらいファンの才能がありすぎる・・・。

「どうすれば本物のアイドルになれるだろうか」と苦悩する少年ハリウッドのメンバーを見る一方で、我々も「どうすれば正しいファンになれるだろうか」という疑問を投げかけられるような存在がこの”握手の女”でした。

Wake up, Girls!』大田邦良

本エントリーの最後を飾るのはこいつです。

皆さんはSNSや画像掲示板を見ていて〝めちゃめちゃ汚い顔で号泣するデブでメガネのサイリウムを持ったオタク〟の画像を見たことないでしょうか?
「この汚いオタクよく見かけるけど、どんなアニメのどのシーンか知らないなあ」って人は多いと思いますが、彼こそがこの太田氏なのです。

Wake up, Girls!』はここまで上げたアイドルアニメの中でもわりと出来が良くない方のアニメで、全話見ておきながら正直あまりオススメする類いのものではないと思っています。
しかし、この作画もアイドルも曲もダンスもストーリーもへっぽこなアニメにおいて、唯一評価できると感じたのがこの汚いオタクの画像の人こと太田氏です。

そもそも太田氏というキャラクターはメインキャラみたいな顔をしていますが、話の本筋には全く絡まない〝名前のついたモブキャラ〟といった立ち位置です。

第1話でライブをするWUGのメンバーの中に、人気アイドルグループを脱退した島田 真夢の姿を見つけ、それ以来WUGのファンを始めます。
あらゆる現場に駆けつけ、大きめのイベントになれば仲間を招集して法被や団扇を自作し、献身的に彼女たちの姿を追いかけ続けます。

太田氏は担当声優である下野紘の怪演も手伝い、オタクらしいキモイしゃべり方でキモイファンのリアルを画面に焼き付け続けます。
おそらく視聴者の大半は「なんでアイドルアニメなのにキモイオタクの姿を見せられなきゃいけないんだ」って感じていたと思います。
実際、この作品の監督は露悪的な考えから「お前らアイドルオタクのリアルな姿を見せつけてやる!」みたいな気持ちで彼を登場させてたんじゃないかと疑っています。

しかしWUG1期の終盤、大舞台に立つアイドルの現場に駆けつけた太田氏は全力で応援をやりきり、最後にはあの有名な大号泣のシーンを見せつけます。
ぶっちゃけ肝心のライブシーンは作画が力尽きててかなり微妙だったので、なぜか号泣する太田氏の方がアイドルよりも作画が良いという怪現象まで巻き起こしています。

そんなネタみたいな存在でありながら、作中の彼の活躍はとても真摯で、ひたむきで、見返りを求めず、愚直にアイドルを応援し続ける素晴らしいオタクの姿そのものでした。

しかも驚くべきことに、これだけ長い時間画面に登場しておきながら、メインキャラクターであるWUGのメンバーたちのドラマに太田氏は全く介在していません。(※少なくとも1期の範囲内においては)

彼は大好きなWUGたちに名前を呼ばれることも、認知されることもありません。「いつも応援ありがとうございます」とファンの一人として握手ぐらいはできたでしょうが、せいぜいその程度です。
太田氏の人生にとってWUGの存在はかけがえの無い大きな存在である一方、WUGのメンバー達にとって太田氏という存在は単なるファンの一人でしかないのです。
両者のドラマは交差しているようでいて、ただ一方的な献身でしかないのです。

視聴者として「こんなに頑張って応援してるんだから報われてほしい」と思ってしまう一方、むしろ「現実のファンという存在は普通こういうものだ」という現実を突きつけてもいます。
太田氏は確かに見かけのキモいファンですが、もっとキモいファンは現実にたくさんいます。
アイドルにガチ恋してしまう人、認知してもらおうとSNSで痛い絡み方をしてしまう人、プライベートに踏み込んでしまう人、あまつさえ危害を加えてしまう人。
彼らは「応援するアイドルに何か返して欲しい」と見返りを求めてしまったばかりに、ファンでは居られなくなってしまった存在なのです。

しかし太田氏の姿はどうでしょう。見返りなど求めず、ただアイドル達が大舞台で成功したことに心から感動して号泣し、それだけで満たされているのです。
彼はもしWUGが握手できないぐらい遠い存在になった日には、ただ満足そうに微笑むのみでしょう。

Wake up, Girls!』というアニメはアイドルの成長物語として見れば平凡か、ややそれを下回るぐらいの完成度というのが正直なところです。
しかしこの作品を「太田邦良というファンの献身のドキュメント」として見返すと、ここまで目を背けたるほど克明にファンの姿を描いたアニメは他になく、彼の存在をもってこの作品を非凡なモノにしています。
作品本編が語られなくとも、彼の画像や姿だけが「ファンという存在を表す象徴(イコン)」として今もネットに残り続けているのは、なんだか納得できてしまいますね。

おわりに

というわけで、アイドルアニメのヤベーファンの例を思いつく限り紹介させていただきました。
他にもアニメ『THE IDOLM@STER』に出てくるプチピーマンPとか、『KING OF PRISM』に出てくるファンの女達とか、味わい深いファンの出てくるアニメはたくさんあると思います。
ですが僕が知らない魅力的なファンが出てくる作品の例を知っていたら、コメントでご紹介していただけると幸いです。