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電子書籍作家の幾谷正が個人出版の最前線で戦う話

『蒼穹のファフナー』はぶっちゃけ全然面白くなかった

現在、第2期絶賛放映中の『蒼穹のファフナー』だが、毎週楽しみに録画して見ている。

第1期はリアルタイムで見ていたし、前日譚である『RIGHT OF LEFT』も同様だ。
『宇宙のstellvia』を切っ掛けにファンになったangelaのCDも買ってしまった。
(おこづかいの少ない高校生の自分が作品に投資できる手段はこれぐらいしかなかった)

もちろん劇場版である『HEAVEN AND EARTH』も見ている。
作品に対してはフラットに楽しんでいるつもりだが、どちらかと言えばファンという括りになるかもしれない。

だがぶっちゃけ『蒼穹のファフナー』を初めて視聴したとき、僕の正直な感想は「つまらないアニメ」だった。
見終わってしばらく経ってから、なぜか急に一転してファンになったのだ。

面白いと思った作品をつまらなく感じてしまうことはあっても、逆はかなり珍しい。
なぜそうなったのかと尋ねられれば、答えはわりと単純明快だ。

当時の僕が馬鹿すぎて、作品を受け取れるレベルに全く達していなかっただけだった。



そもそも初めてこのタイトルに触れた時点での僕は、まだ中学を卒業したばかりの高校生だった。
まだ深夜アニメという文化を知ってから日の浅かった僕は、とにかく片っ端から録画しまくって見ていた。
鋼鉄ジーグ風に表現すれば「見る理由などアニメというだけで充分だ!」って感じだ。

なので、どのアニメが面白くてどのアニメがつまらないのかすら、実は上手く判断できていなかった。
見始めたアニメはとにかく最後まで見る馬鹿正直な視聴者だった。“切る”という判断を知らなかったのだ。
下級生2』を完走してしまったぐらい、と言って伝わってほしい。

とにかくアニメが見られればいいというぐらい、アニメ音痴な頃が僕にもあった。
そんな中で『蒼穹のファフナー』というタイトルも、なんとなく見始めて見終わってしまった。

そんな自分の感想と言えば、「なんか毎週陰鬱な話して人が死にまくる爽快感がなくてつまらないアニメだった」というレベルでお終いだった。

第一に、陰鬱な話がとにかく長い。
普通のロボットアニメなら、味方同士のケンカなんて一話で始まってもその一話のうちに終わってしまう。
なのにファフナーときたら、男同士が女々しくいつまでも過去に捕らわれて余所余所しい関係を続けるという、水面下のいさかいがいつまでも続く。
そして、わざわざ何話もかけて心の距離感を緻密に描き混んでくれるわけだ。
ところが当時の僕と言えば「カッコイイロボットが戦って悪い敵をカッコよくやっつける」単純明快なロボットの活躍が見られればそれでよかった。
極めてレイヤーの高い話をものすごく丁寧にやってくれていたけど、価値の分からない中学生男子にとっては犬に論語だ。
「他者の傷に触れあう」なんて人生経験を積んだことのない僕にとって、「二人の関係性」より「世界の命運」の方が分かりやすく伝わるテーマだった。

第二に、とにかくキャラが次々と死ぬ。
せっかくの新型機と味方パイロットが増えるという、わかりやすいパワーアップのイベントが起きたのに、起きたそばからパイロットごと散っていく。
今ならば「必要な話だ」と言われれば納得できるのだが、ワクワクしてロボットを見てる僕はそこまでわきまえが良くなかった。
とにかく味方勢力が分かりやすく強くなることの方が、僕にとって「必要な話」だった。
不思議なもので、第2期を迎える今となっては、味方勢力が分かりやすくパワーアップすると「もう戦うな! もういい、やめてくれ!!」と画面に向かって必死に叫んでしまっている。


第三に、爽快感がなかった。
「悪い敵なんだからとにかくぶっ殺せ」という、分かりやすい敵と分かりやすい戦いを求めてロボットを見ていた。
実際のところ、何と戦うべきかとか、どう戦うべきかということをしっかり考えて作られているのが、このアニメの凄いところだった。
とはいえ、どう見ても人外なエイリアンを相手に、彼らが対話を試みようとする姿勢は正直言って滑稽だった。
猿に向かって語りかける紳士を見たとき、君はその紳士を滑稽だと思うだろうか。あるいは高潔だと称えるだろうか。


そんな感想のまま長年忘れていたロボットアニメというのが、その時点での僕にとってのファフナーだった。
しかしある程度の歳を重ねて経験も知識もそこそこ蓄えた大学生のある日、ふと急にこのアニメを見返す機会が訪れた。
たぶん、動画サイトの全話無料配信とかだったと思う。

これだけ低評価だったこのアニメを改めて見返そうと思ったのは、おそらく自分でも理解していたからだと思う。
「とんでもない思い違いをしている」のではないかと。
正直言ってその不安は的中した。

全話改めて見返して、初めて見たときよりも全力で泣いたり笑ったり叫んだり楽しんだ。
既に一度見ていて知っている展開だったはずなのに、キャラの死や波乱の展開の連続にドキドキさせられた。
退屈だった台詞回し、冗長だった展開の一つ一つが、とんでもなく丁寧で面白くて大好きになった。

ここで冒頭の結論に戻る。「ファフナーがつまらなかったのは俺が馬鹿だったからだ」――と気づいたのだった。

難しいアニメは大人になってから

どんな作品でも「作品が想定している視聴者の最低限の知的水準と人生経験」というのは、それと書いてないだけで存在している。
例えばキャラデザが劇画チックだったり写実だったりすると、中高生は作品を自分向けに作られていないと判断してしまう。
これは裏を返せば、対象年齢ではない未然な視聴者を上手くはじき出しているのではないかとすら思える。

最近は「若い読者を甘やかす作品ばかりだ」とよく話題になるが、やや認識がずれていると個人的には思う。
作品をかみ砕くための歯が生えそろっていない、若い層に向けたコンテンツは確かに増えている。

例えばできるだけ読者にストレスをかけないように、味方同士でケンカはしない。キャラが死なない。努力や修行もしない。
徹底的にストレスになる要素を排除して、中高生にも理解できるレベルの話しか展開しないのだ。
若い層だけでなく、噛むのに疲れた熟年層にもこの方針は人気がある。

だが面白い作品というのは、基本的に高ストレス高リターンだ。
途中で掛かるストレスが大きいほど、あとの感動もひとしおになる。
とはいえ、ストレスをかけるだけかけておいて、外さないまま投げやりになってしまう作品が多いのも事実だ。
そういった不信感が積み重ねられた結果、柔らかい作品を好んでしまうのも仕方がない。

歯ごたえのある作品はいつでもちゃんと存在しているが、彼らがその存在に気づいていないだけだ。
君が作品を「つまらない」と感じるのは、君に向けられていない作品を楽しもうとしてしまっているだけかもしれない。
面白かったはずの作品がつまらなくなったのは、君が作品の想定している層から外れてしまったからかもしれない。

自分も作品を書くときは、対象とする年齢層をきちんと前想定してから作品の設計を始める。
若い読者に向けたものを書こうとするとき、いつも心の中に住んでいる中学生の自分に問いかける。
この作品はストレスを感じるか、陰鬱で分かりにくかったりはしないかと。

本来、視聴者が作品にであって評価を決めるのは最初の一回だけだ。
同じ作品に、二度目の出会いができたのは、本当に幸運だったと改めて思う。